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Nichts――無  作者: イプシロン
Ⅲ フェー
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36/55

#36 ポエトリー――白鯨

 シレーヌはようやく上体を起こしていられるようになった。

 一、二時間という短い時間だったが、横たわったまま眠るだけのそれまでと比べれば、格段に回復しているように見えた。

 起きているときの意識もしっかりしていたが、それは別の悩みを生んだ。退屈だった。

 それを、敏感に感じ取ったフェーは、かつての給仕ドロイド、カルマール顔負けに活躍した。

 シレーヌはその愛娘を眺めながらいった。

「いつ暴走するかわからないとこは変わらないわね」

「船長、あの程度は暴走といえません」

 そうコメントしたのはネライダだった。

 しかし、どういうわけかフェーが一日一回やって来て集中治療室で戯れるのは、シレーヌが目覚めているときだった。

 治療室に並んだもうひとつのベッドには、以前シレーヌが怪我をしたときのように、自室からフェーが運んできた品物が山と積まれている。

 シレーヌはフェーが来るまでのあいだ、プルプSEに頼んでそれらを手にとって退屈を凌ぐのが常だった。

 ときどき、愛娘に頭をさげてベッドにある物を自室に運ばせたり、自室にある物を運んできてもらった。

 ネライダはそれを知って、

「配送品が宛先に届く保証はないんじゃないですか?」

 といいながら、彼女の私物が行方不明になっていないことをしっかり確認していた。

 シレーヌは以前、船内パトロールのときに中国区画に電磁波防護ゴーグルを置き忘れ、それが原因でドロイド工場と化学プラントに大火災を引き起こしたことさえ、念頭に浮かばないほどフェーに夢中だった。

「前は、わたしがあの子を追いかけ回してたのに、いまは、あの子にわたしが追いかけ回されてる気がするわ」

 とも口にした。

 当のフェーはどうかといえば、シレーヌやネライダの思いなどまるで気にしていないようだった。

 どんなに船内を探検してもしつくせない。

 フェーは本能とも直感ともいえぬ感覚でそう感じていたものの、彼女にとってシレーヌの私物を持ち運ぶのはなにより楽しいようだった。

 船内各所にある機器や装備は固定されるかコードやワイヤーに繋がれ、フェーの自由になるものは無かった。

 シレーヌとの欠かさぬ面会のせいか、興味のある物を手にとれるようになったせいか、あるいはネライダと仲良くなりはじめたせいか、原因は定かではなかったが、フェーはこのところ急速に知性を成長させはじめていた。

 そんなある日――。

「ねんねん、ネライダ。こんにちゅわ、どこきゃ、こわれてるちょこない?」

「ハロー、フェー! ネライダはどこも壊れてないよ。こんにちは。――こんにちはは、フランス語でボンジュールだよ」

「ぼじーる……ぼんちゅー、ちがうちがーう、ボンジュール! ――ネライダまちゃね、ばいぱい!」

 シレーヌは治療室の隣にある殺菌室の表示灯が緑に変わる前に、フェーのやって来るのを鋭く感じとっていた。

 ドアがスライドして開き、空気圧が増減し電磁波バリアーが作動する音を突き抜けて、フェーは半身を起こしているシレーヌに駆け寄った。

「フェー、いらっしゃい」

「シレーヌ、いらっちゃい」

 そういうと彼女はさっさと靴を脱いでベッドによじのぼった。

「違うでしょ、いらっしゃいといわれたら、こんにちはっていうのよ」

「こんにちゅわ――んとー、ボンジュール」

「フェー! あなたどこでフランス語を憶えたの !?」

 シレーヌは驚きと喜びの混じりあった感情に痺れていた。

「ネライダがいった、まねっこした」

「あらそう」

 シレーヌはフェーがなにかを大切そうに両手で胸に抱えているのに気づいた。

「悪戯っ子さん、今日はなにを持ってきたの? 見せてくれる?」

「これぇね……これぇねん……」

 それは、古ぼけた立体音像ブックだった。

「それ貸してくれる?」

「うーん、うんとねぇ、うーん……」

 フェーは少しぐずったがシレーヌに手渡した。

「あら懐かしい、持ってきてたことすっかり忘れてたわ。でもこれどこにあったの?」

「どきょ? どきょってなーに?」

 フェーは小首を傾げた。

「まあいいわ。それであなた、これを再生して欲しいの? それとも――」

「さいしぇい? うーん……よみゅ? いう? みる? きく? うーん……みる、きく……」

 フェーには珍しい縋るような声だった。

「ちょっとこっちにおいで」

 シレーヌはフェーを引き寄せると彼女のうなじのあたりに手を添えた。

「ねえ、ここのボタン押すとどうなるかわかる?」

「ゆめぇ? みる、きく、おきる?」

「これはそれと同じようなものよ。ここにあるボタン」

 そういってシレーヌは立体音像ブックにあるボタンを指さし、

「ここを押すと夢が見れるの。さあはじめるわよ。フェー、夢はすぐ消えちゃうから、よく見ておくのよ。二度と同じ夢はみれないから――そうだ、あなた自分でこのボタン押してみる?」

「おす! フェー、おす!」

 青々とした海中にいるかのような映像が浮び上がった。まるで本物のような波音。差しこんでくる日の光が燦めいたあと、"Sirène(シレーヌ)"という文字が浮び上がった。

 フェーは大きく目を見開いて、片手で布団のシーツをもう片手でシレーヌの左手首をぎゅっと握った。

 音楽が流れはじめたあと歌詞が表示され、やがて歌が聞こえはじめた。

 それは、シレーヌとルフトがはじめて作った詩に旋律(メロディ)をつけた曲だった。


  ほしのうみ およぐクジラよ

  しろいクジラよ しろいクジラよ

  みえないやみで ひかりのうたを

  うたってよ

  ねむれるみみと さめたみみへと


 一番が終わって二番に差しかかったとき、ネライダが口笛で伴奏しはじめた。


  ながれぼし たべるクジラよ

  しろいクジラよ しろいクジラよ

  ほのおでこがし いやしをもやせ

  ゆらめいて

  いかれるくちで なだめるくちで


  では しつれいします

  (りゅうぐうじょうから)

  また おあいしましょう

  (あまのがわこえ)

  ありがとう ごめんなさい

  (ほしのたてごと)


 三番は、聞きなれたネライダのテノールボイスがハーモニーを奏でた。シレーヌがはじめて耳にしたネライダの歌声だった。


  しろいクジラ しおさいのうた

  ときをひらいて ときをむすべよ

  すべてをむにし あまさずひかれ

  ひかってよ

  ひとみのおくで ひとみをこえて

  シレーヌ


  では しつれいします

  (ニヒト リヒト ルフト)

  また おあいしましょう

  (ディッキー リッキー エイミー)

  ありがとう ごめんなさい


 最後のサビでネライダは、裏声(ファルセット)のカウンターテナーで歌を口ずさんだ。それに合わせるようにシレーヌも歌っていた。


  しろいクジラよ しろいクジラよ

  (じゃあね またね あしたね)

  みえないやみで ひかりをうたえ

  (じゃあね またね)

  シレーヌ


 立体音像ブックが作りだした夢が儚く消えたとき、シレーヌは泣いていた。

 フェーはそっとベッドのうえで立ち上がると、か細い指先でシレーヌの目尻から零れおちる涙を拭った。

「心配いらないの。これは嬉しいときに流れるんだから。流したいだけ流していいの」

 とまらない涙の意味を計りかねたのか、フェーは黙ってシレーヌの顔を見つめつづけた。

「フェー、さっき見た青い海はぜんぶ涙でできてるの。喜びも悲しみも、みんないつか海に溶けて素敵な歌になるの。――だから涙は塩辛いの。ほらこれ、舐めてごらん」

 フェーはなにもいわずにシレーヌの涙の味を噛みしめた。

作中挿入歌"Sirène(シレーヌ)"

https://suno.com/song/a5d5127d-0700-43e4-a117-85e71e16a276

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