#33 アナウンスメント――深夜
場違いなほど明るい照明の待合席で、カルハリアスは待っていた。
――待つことの意味は? ただ時間が過ぎていく意味は?――と、ぼんやり考えながら、携帯電話が繰り返す呼出音に耳を傾けていた。
そのとき、集中治療室の入口扉のうえで赤々と灯っていた、"使用中"というサインが消えた。
カルハリアスは、すぐに電話を切ると長椅子から立ちあがった。
扉の向こうから、ゆっくりともせかせかともいえない複数の足音。扉が開くと同時に空気圧が増減する音。電磁波バリアーが作動する音。カルハリアスは音のしたほうへと数歩足を踏みだした。
「ご家族の方ですか?」
医師と思われる白衣の男がいった。
「いえ、あの……」
「では、御兄弟かなにか?」
――確か、施術中は青緑色の服を着るのではなかったのか?
カルハリアスの頭にどこかで観た医療ドラマの映像が浮かんだ。
「いえ、その……」
白衣の男に付き添っている、女の看護師が怪訝そうにカルハリアスの表情を窺った。
「なら、友人知人の類ですかね?」
「はい、友人です。それも大変長い……ですが、親しいといえるかどうかは……でも、とにかく友人です」
医師は数秒のあいだ気を揉んだような顔をしたあといった。
「このご時世なんで、患者さんの個人情報の扱いというのがありましてね――」
「大丈夫です、責任を持ちます。とにかく容体だけでも教えてください」
「まあ、見たところ悪い方ではないようなので」
そういうと、医師は軽く咳払いしてつづけた。
「ルフトさんは脳溢血です」
「といいますと?」
「ちょっと時間がかかりそうなので、座ってお話しますか」
医師はカルハリアスに長椅子を勧め、自分もその横に腰かけた。
「脳の血管が破れて出血したんです」
元使用人であり、いまはルフトの友人である老人の頬がピクついた。
恐れていたことが現実だったと認めざるを得なかったのだ。
しかし、カルハリアスはそれを受け入れかねたように、持てる知識を医師にぶつけた。
「脳梗塞ではないですか?」
「いいえ、脳溢血です」
「先生、なにがどう違うんですか?」
傍らに立っていた看護師がカルハリアスの横に腰かけ、彼の肩に手を置いていった。
「落ちついてください。こういうのは受け入れるのに時間がかかるんです。まずは、落ちついてください」
「時間? 時間ですか……」
医師はそれには構わず説明をはじめた。
「簡単にいいますと、脳溢血は脳の血管が破れるんです。ルフトさんの症状はこれです。この場合、溢れた血液が脳を圧迫して機能障害を起こすんです。――脳梗塞は血管が詰まる症状です。この場合は、脳への血流が滞り、これもまた脳機能に障害をもたらします」
「……」
「どちらがより危険かは一概にはいえません。問題の起こった血管の位置や出血や血栓の規模、それから、症状が現れてからどれだけ早く対処したかによって変わるのです。なので、どちらがより危険かはいえませんが、ルフトさんの場合、いまのところ一命は取りとめています。ですが、大変危険な状態であることに変わりはありません」
「先生、元に戻れるんですか? 旦那様は?」
医師はその言葉を聞かなかったかのように口を開いた。
「……とても厳しいとしかいえません」
「それはどういう意味ですか?」
「障害が残る可能性が高いということです。……例えば身体が麻痺するとか、呂律が回らなくなるとか、失語症を引き起こすとか、思考や認知が鈍るとかですね。……最悪の場合、植物人間になる可能性もなくはありません」
「……」
「出来ることはしました。あとは御本人の生命力ということになるかと……。とにかく、場合によっては急変する可能性もあります。なので、予断は許しませんが経過を見守りましょう。なにかあったら連絡を入れます。これでよろしいですかな?」
意気阻喪となったカルハリアスはしばらく沈黙したあと、
「はい……」
とだけいった。
それから、カルハリアスと看護師は連絡先などの事務的なやりとりをした。
急患用の待合室は変わらず明るかったが、窓の外は夜の帷に包まれていた。
カルハリアスが、取り急ぎの用件を済ませたとき、時計の針は午前零時を回っていた。
チクタクと鳴り止まない秒針は、希望とも絶望ともいえない音を刻みつづけていた。
「どうしたものか……」
思考は混濁し思い煩うばかりだったが、カルハリアスは迷惑も顧みず、エポラールに電話をかけた。とにかく誰かとなにかを話したくて、それで僅かなりとも胸のうちにある痼が溶けるのではとしか考えられなかったのだ。
――はい、もしもし。
ようやく耳に馴染みはじめたエポラールの声は、そのときのカルハリアスには小夜啼鳥のように聞こえた。
「こんな夜中に申し訳ない」
――ああ、あんたかい。その声はカールだね。どうしたさ、そんな掠れたようなか細い声を出して。いやあたしもさ、早く寝ちまったんだけど、なんだか寝つかれない夜でね。いまさっき目が醒めたとこよ。さほど蒸し暑くもないんだけど、なんだろうね? カール、あんたもそんな夜があるじゃろ? そんであんた、あたしんとこへ電話してきたんじゃろ? 違うのかい? なんとかおいい。
「それがね、ポーラ。いまはそんな気分じゃないんだ。童話の一節じゃないけど、今夜は空の星がみんな消えちまった気分なんだ。それどころか月も消えてしまった。足元どころか目の前さえ見えないんだ。まるで藪の中、いや森の中なんだ」
二人は、互いを愛称で呼びあいながら、しばらくは物語るように会話をつづけた。
――森ね、良くも悪くも森は森だわね……いやそんなことはどうでもいいのさ。あんたもあたしも歳だから、そらあ鳥目にもなるわさ、いまさら気にすることかね? それよりあんた、寂しいんじゃろ? 大の男がこんな時間にしみったれた声で電話してくるときゃあ、相場がきまってるさ。とはいえ、あたしももう若くはないから『待っててカールいますぐ行くわ!』なんていえやしないよ。ロミオとジュリエットじゃあるまいし。もっともあたしはああいう湿っぽいのは好みじゃなくてさ、どっちかいうとシーザーとクレオパトラが好みさ。『デンバー市民よ、そして友人たち、同胞たちよ、私ではなく、私の恋バナを聞いてくれ!』なあんつってさ、一度演説してみたい口だわさ。いえば、熟年のロマンス、いやちょっと違うね。もっともあたしとあんたは熟年を超えちまった老年だけどさ。
エポラールの豪快な笑い声が響いた。
「ポーラ……ルフトさんが倒れた……」
――なんだって? いまなんつった? もっかいおいい。耳がおかしいのかもしれんからね。
「ルフトさんが倒れました。いま病院からです」
――あんた、ちょっとお待ち。
床をバタバタと早歩きする裸足の足音と、窓をパタパタと閉めるような音がした。
――あんた、だいぶ冗談をいえるようになったけどさ、どうもそれではなさそうだね。どこの病院だい? それで?……。
エポラールの態度が豹変した。カルハリアスは、まるでひそひそ話をするような声の主に事の重大さを告げた。
二人は深夜であることも老いも疲れも忘れたかのように長々と話した。カルハリアスは話したいことを話したいだけ口にし、エポラールは聞きたいことを聞きたいだけ耳にした。
朝焼けまでにはまだ少し時間があるころ通話は終わった。
コロラドの夜空には、その時間帯だけ夏の大三角形がよく見えていた。




