#31 アンバランス――悪態
太陽が沈んであたりが闇に支配されたころ、ルフト邸の裏口にある扉の鍵が開く音がした。
小綺麗な格好をした小柄な老人は、すこし前かがみになる癖もそのままに、邸のなかに姿を消した。
玄関広間に明かりが灯った。
老人は一階と二階に主人の姿はないだろうと思っていたが、念のためそれらを確かめたあと、一階に戻って内線電話を手にした。
慣れ親しんだ呼出音がいつまでもつづいた。
「こんな時間にお出かけとは珍しい。でも、このところあの方は少し変わられたから、そういうこともあるかもしれない」
老人は一人ぽつりと呟いたが、妙な胸騒ぎを感じていた。
彼は三階へのぼり、ひとつしかない部屋の扉の前に立ち、遠慮がちにノックした。
返答はない――。もういちどノックする。
長いあいだ使用人だったカルハリアスが、儀礼そのままに立ち去ろうとしたとき、部屋の奥にある窓の木扉が音をたてたような気がした。
「旦那様が閉め忘れるなんてことはないはずだが……」
カルハリアスは三度目のノックをした。
やはり何の応答もなかった。
彼は思い迷いながら、受けとったメールにあった文面を思い出した。
――わたしは使用人としてではなく、友人として君を必要としている。
カルハリアスは意を決して扉のノブに手をかけた。
扉はすんなりと開いた。
彼は開いた隙間から中の様子を窺った。窓は開かれていたが、人の気配がない。
思い切って扉を開けたそのとき、カルハリアスは床に倒れているルフトを見つけた。
駆け寄りながら口から言葉が迸りでる。
「旦那様! いかがなされましたか!」
カルハリアスはルフトの青紫色をした顔に気づき肝をつぶした。
すぐに首筋で脈をとった。酷く弱々しく不安定だった。
彼は携帯電話を手に取ると、"911"へ通報した。
カルハリアスは待った。なにをどうすることも出来ない時間を耐えて待った。自分の無力さを呪う言葉を何度も吐きだしそうになるのを堪え、じりじりしながら待った。
だんだん近づいてくるサイレンの音を耳にしたとき、彼もまた卒倒しそうなほど憔悴しきった顔になっていた。
開け放たれた窓から赤い回転灯の光が、ルフトの研究室を舐めるように刺した。
カルハリアスはいきなり立ち上がると、階段を駆け下りて救急隊員を導き入れた。
街路には通行人もなく野次馬の人影もなかった。
「くそ! くそ! くそめが!」
彼は世の中に対して精一杯の悪態をついた。
世間の風はカルハリアスにとっていつも木枯らしだった。ようやく射したかのように思えた太陽があっけなく燃えつきていく虚しさ。孤児院出身の彼は僅かしかない語彙で、これでもかと悲しみと悔しさを暴発させた。
救急車に付き添いとして同乗していた彼は、入り乱れた感情の津波に飲まれて体のあちこちを震わせていた。
――旦那様は、わたしと出会うまえから、一人の女性を支えにし、その一人のためだけに生きてこられた。その生き方がどんなに素晴らしいかわかる人はほとんどいない。わたしはあの方から教えられた言葉を胸に生きてきたんだ。『ひとりの人を愛する心は、どんな人をも憎むことができません』。どこの誰がいついったかさえ知らないが……。だからわたしはあの人を愛そうとした。それが世界に受け入れられることだと思ってきたからだ。くそ! くそ! それなのになぜだ! なぜわたしからあの人を奪うんだ! くそめが! くそう……――。
救急車が病院についたとき、カルハリアスはようやく噴きあがってくる憤怒が尽きたことに気づいた。
――これが、許すことであり、許されることなのかもしれない……受け入れることは、受け入れられることなのかもしれない――。
彼は、集中治療室に運ばれるルフトを見送ったあと一人待合室に向かい、電話に表示されたエポラールの番号をタップした。
カルハリアスが心中に抱きつづけてきた言葉と、ルフトが閃きを得たきっかけとして思い出された言葉は、奇しくも同じゲーテによるのだった。




