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Nichts――無  作者: イプシロン
Ⅱ ルフト
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29/55

#29 メディテーション――思索

 アラバマの新しい友たちに得心したルフトは、旧い友のいるコロラドへ帰ってきた。

 邸宅の庭に聳える杉は変わらず彼を迎えたように見えた。しかし生物として見るなら杉はわずかに成長しているに違いない。

 ルフトもそれを感じとったのか、底しれぬ閃きが起こる予感を抱いて杉が目指している天空を眺めていた。

 トランクを手に邸宅の扉をくぐろうとしたとき、ふと脳裏にシレーヌによく似た女性が会釈する姿が浮かんだ。宇宙機構本部の最上階にある廊下で出会い、別れた女性だ。

 ――では、失礼します。またお会いしましょう。

「わたしは帰ってきたんだ、失礼しますはおかしいだろう。おかえりなさいではないのか? ――いや待てよ……光は光であり、思い出は思い出なら、さようならはまた会いましょうともいえるのではないか?」

 ルフトは我ながら奇妙な発想であると思ったものの、そこになにか鍵が隠されているような気がしてならなかった。

 カルハリアスの出迎えはなかった。

 ルフトは三階へと階段を踏みのぼり、鉄扉が据えつけられた研究室に入り服を着替え、椅子に腰かけるとテーブルの上に置かれた水晶を見つめた。

「アルゴスの目だな……」

 水晶は光の干渉をうけ、孔雀目の模様を増やしたり減らしたり、浮かびあがらせたり消えたりさせている。

「しかし、カルハリアスはどうしたんだ? 普段の彼であればメモ書きを残すのが普通なんだが……さてはエポラールの婆さんに捕まって困り果てでもいるのか?……」

 そう口にしてみたものの、どうにも気になって仕方がない。

 ルフトはさして多くない部屋部屋をひとつひとつ見回り、外に出て庭を一周すると、しまいには物置のなかまで検めた。

「一体なにをしてるんだ? どうもこれは悪い病気にかかったらしい。"人恋し病"だろうな」

 彼は我とわが身を笑いながら研究室に戻った。

 しかし、カルハリアスのことが念頭を離れず、仕方なく使用人の携帯電話にメールを送った。

 ――無事帰宅。具合はどうかな? 特別、急ぐ用件はない。だが、わたしは使用人としてではなく、友人として君を必要としている。念のため伝えておく。

 それは、主人としての彼と対等な友人としてルフトが入り混じったような文面だった。

 研究室の椅子に戻ったルフトは、しばらく様変わりする孔雀目模様の水晶を見つめながら思索に耽った。

 ――α(アルファ)β(ベータ)が断絶したいま、新たにγ(ガンマ)とそれ以降の送受信回線をつくる発想自体は間違った方向とは思えない。しかし、いずれにしても通信のセキュリティ強度が問題になろう。それに、今度の場合は宇宙機機構や軍からの干渉や傍受に備えなければならん……となると――。

 携帯電話が震えてメールの着信を知らせる。差出人はカルハリアスだった。

 ――おかえりなさい。今夜中に戻ります。お預かりした本はお渡ししました。詳細は後ほど。これから三ブロック先に伺う予定です。

 礼儀正しいが相変わらず実務的なカルハリアスの言葉に、ルフトはにっこり微笑んでからすぐに返信した。

 ――いってらっしゃい。戻るのは明日以降でもかまわないよ。

 腕組みをしなおしてまた思索に戻ってゆく。

 ――γ(ガンマ)δ(デルタ)を組みあわせてε(イプシロン)回線にする。しかし、これでは強度が足りなすぎる。二重を三重にしたところで侵入を完全に防げるわけではない。かといって……。

 俄雨の降る川に浮かんだ小さなボートで、エイミーとともに、タブレットとそこに保存された情報を破棄する映像が脳裏に浮かんだ。

 ――あれは、八重の厳重さだったが、いまでは川の藻屑となんら変わらない。だとしたら……。

 一瞬、テーブルに置かれた水晶に、百もの孔雀の目が浮かんだようだった。

 ――そうか! ならばα(アルファ)からω(オメガ)まで、すべての要素をひとまとめにした回線が理想だとするなら、それは二十四重だ。現状ではこれが一番セキュリティとしては最強だろう。しかし、時間がかかるな……。それに、その α から ω を統括したものはなんになるんだ? そんなものはこの世界に存在しないと考えるのが普通だが……。あるとしたら、それはなんだ !? ――光は光、思い出は思い出、憶えていることは忘れること、さようならはまた会いましょう、おかえりなさいはいってらっしゃい、二重は三重であり八重でもあり二十四重でもある……。だとしたら、無限の要素をひとつにまとめなければならないが、それは不可能だろう。――二十世紀に無限は探求されつくされた。集合論からはじまり行き着いた先が選択公理なことはいまも変わらない。無限からなにかひとつを選択することは可能だし、数学の公理としてはもはや確定事項だ。しかし、選択はできてもそのあとどうなったのかは、誰も知り得ない……。ある球体からこれを選択し、つぎにあれを選択し、次々に選択していく。その結果まったく同じ球体がふたつ出来上がる。しかも、これは特異な一例にすぎない。推論も予想もつかない結果になる点になんの変わりもない。ではどうすれば?……。どうすればいいんだ?――。

 そのとき、ルフトが若いころ夢中で読んだ古い記憶。奈落の底にある深い忘却の沼で眠っていたなにかが岩漿(マグマ)のように噴出した。それはゲーテの言葉だった。

 ――『かの一は永遠に一であろう。多に分かれても、一。永遠に唯一のもの。一の中に多を見いだせ。多を一のように感ぜよ。そうすれば、芸術の初めと終わりが得られる』――。

 ――感ぜよ、そして芸術か……。いやまて、ならば無限の対を無と考えて、それを感知しあえるものを相互回線にすれば……そうか、これこそが!――。

 ルフトのなかでなにかが爆発した。

 ――真紅の閃光。

 つぎの刹那、彼のなかをあらゆるものが走馬灯のように駆け巡った。

 孔雀目の模様が浮いては消える水晶がそれに反応したように、神々しく輝いた。

「ネライダ、お前こそがその鍵なんだな! ようやく……」

 そのとき、ルフトは鉄槌で頭をかち割られるような強烈な痛みを覚え、轟音が部屋中に反響するのを聞いた気がした。

「わかたヒィ、ガ……」

 だが、椅子から崩れ落ちて床に倒れる不気味な音を、彼が耳にすることはなかった。

 卒倒したルフトの顔には、赤と黒が溶けあうような紋様が浮びあがっていた。

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