#27 リバー・クルーズ――俄雨
木々を吹きわたる初夏の風が、緑の葉々を鈴のように鳴らしている。
梢で小鳥たちは囀りあい、ときどき水鳥が水面に着水する。
川辺りを駆けてゆく自転車、すれ違う人びと。ルフトとエイミーはそれらに溶け込むように、遊歩道を歩いていた。
「ハンツビルにもまだこんな場所が残っていたんだね。すっかり変わってしまって、ここ数日すこし意気消沈してたんだ」
アース地にギンガムチェックのハンチング帽は、ルフトの白髪に似合っていた。
「心安らぐ場所が内緒話しに最適なの、わかる気がします。都会って便利ですけど、落ちつかないんですよ。――あ、あれです」
エイミーが指さした先で、一艘の半動力ボートが川波に弄ばれていた。
「足元、気をつけて」
「まだ足腰はしっかりしているよ」
手を取りあって小舟に乗りこむやりとりは、まるで祖父と孫のようだった。
ときどき、カヤックが音もなく追い抜いてゆく。
しばらくは、たわいのないよもやま話がつづき、ときどき短い沈黙があった。
「木が繁った林、開けた平野。どちらも安全なように見えて安全ではありません。林は監視の目がどこにあるのか見当もつきません。開けた場所は望遠で狙われます。立ち止まっていればいつかは捕まります。静かすぎても騒がしすぎても駄目。なので、その中間のようなところが最適なんです。驚かせるつもりはなかったのですが。これで納得してもらえますか?」
ここなら問題なしと判断したのか、エイミーの顔が職業人になるのがわかった。
「わたし、この一か月ほど憔悴するほどではありませんでしたが……ルフトさん、ディッキーからあなたの経歴や身辺を調べるよう指示されてから、心の休まる暇がありませんでした」
「一か月? ディッキー? ……では、彼もあなたも、わたしのことはあらかた知ってたんですか? それに、君はなぜ彼のことをヴァルトと呼ばんのだね?」
「すみません、隠したりして。――でも、そのころ謎の宇宙船と異星人らしき遺体がニュースになったのと、照らしあわせてもらえば、わかっていただけるかと。――それと、わたしが彼のことをディッキーと呼ぶのは、立場表明のようなものです。うちの組織は人種国籍性別年齢、思想信条に関係なく様々な人々がいます。でも、ディッキーのお父さん、つまりヴァルトさんが亡くなってからディッキー派、ヴァルト派という分裂が起こりまして――」
「なるほどね。そういわれればどちらも納得できる。だが、お二人ともお人が悪い。――でも、わたしが混乱してきたこの一週間を思えば、君のいわんとしていることは十分理解できる。しかしそれではディッキーの奥さん、リッキーも苦労が絶えないね」
「あの人は大丈夫なんです。いえ、むしろリッキーがああいう人だからこそ、わたしはディッキー派なんです。あの人なにもしないんです」
「いや、でもわたしには紅茶を淹れてくれたよ。それに楽しくお喋りもした」
エイミーは思わず吹きだしてから先をつづけた。
「それなんです。リッキーは本部にいてもなにもしないんです。業務には無頓着な人。『あの人は一体なにがしたいんだ?』。そう、あちこちから聞こえてくるほどです。――ただディッキーの傍にいたい、それだけなんです。わたしも三十になるまで、それなりに恋愛もしてきたんですが、そういうのって理想でしかないと決めつけてたんです。けど、いたんですよ! そういう人が。――それでいて常識人。誰とでも上手くやる。余計なことは一切いわない。いつも楽しそう。憧れなんですよね。――お転婆だかおしとやかだかわからない、わたしとは正反対なんですよね。――それと、これはきっぱり申し上げておきますが、わたしはディッキーの愛人ではありません。秘書っていうだけでよく勘違いされるんですけどね」
「ううん、なるほど」
ボートの特等席で胡座をかき腕組みして聞いていたルフトは、空を振り仰いでそういった。
違う意味で二人には似たところがある。もっともルフトは、シレーヌと一緒にいることでなく、彼女を追いかけつづけるという違いだったかもしれない。しかしそれは、職業人としてどうだったのかという問いを生みだしもした。
「君は君で優れた資質の持ち主だろう。楽しませることも大事だが、驚きも人生には必要だろう。歌の歌詞にこんなのがあった。確かこうだ――『そうさ "人生はつづく"。生きるスリルが失せたあとも。そう、誰もが言う"人生は続く"と。生きる楽しみが失せたあともずっと。――歩こうぜ』だったかな?」
「では、わたしとルフトさんは驚きを共有しましょう」
「へ?」
二人の間にえもいわれぬ笑いに似た空気が揺らめいた。
「これなんですがね」
エイミーは大きなトートバッグから、タブレットを取りだした。
「これは確か……」
「ディッキーと面会したとき目にしたはずです。そのときルフトさんは触れようともしなかったとか」
「わたしは部外者だしね。話しを聞くことはあっても、業務の内容に立ち入っていい立場ではないからね」
「でも、もうそんなこといってられない状況ではないですか?」
「うん、まあ……」
ルフトの視線がタブレットとエイミーの間を行き来する。
「見るも自由、見ないも自由です。わたしは見ちゃいましたが、1インチも内容がわかりませんでした」
エイミーの笑いに曇りはなかった。
「このタブレットのなかにあるものをどうされるかは、ルフトさんしだいです。わたしがディッキーに頼まれてあなたに会いに来たのは、別の理由です」
「というと?」
「これにはとても厳重なセキュリティがかかっています。うちの組織に関する機密が保存されています。それと――」
目ざとく川を昇ってくるカヤックを見つけたエイミーは即座に口をとじた。すれ違って距離ができたのを確認すると、また話しはじめた。
「軍の極秘も保存されています」
「北と南、両方のかね?」
「そうです。それから、ある一隻の宇宙船に関する一切の情報もあります。それにそれら三者、つまりうちと軍と宇宙船との間を行き来したすべての通信情報、もっとも抜けも多少はあると思いますが、が入っています」
ルフトの瞳がこれ以上は無理というほど見開かれた。
それは奇しくも α、β 両方の通信回線が断絶したいま、新たな回線を構築しようと考えていたルフトの構想に重なるところがあった。喉から手がでるほど欲しい情報の断片が目の前にある。
ルフトは逡巡した。
――ネライダの静的アーカイブへのアクセス権限をシレーヌとわたし、二人だけの同時認証にして、誰も踏みこめない設計にしたのは、わたしではないか?――。
そのとき、現実とも幻影ともいいえぬシレーヌから告げられた言葉が、ルフトの脳裏に蘇った。
――光は光よ! 思い出は思い出よ! なにも変わらないわ。だからルフト、忘れて! 忘れることで思いだせるの――。
そして、宇宙機構本部の最上階にある廊下で、シレーヌによく似た女性が会釈する姿が脳裏に浮かんだ。
――では、失礼します。またお会いしましょう。
船べりに当たる水音がやけに耳につく。
「どうされました?」
「いや……なんでもない……」
ルフトの不可解な反応に気づいていたエイミーだったが、臆せずに先をつづけた。
「つまりルフトさん、これを見るか見ないか決めて欲しいのです。もし見なかった場合、記録は永遠に失われます。そして、ここにあるすべての情報はエンタングルメント効果で全宇宙に即時に開示されます。――誰もが知り得る情報になります。もっとも、その情報の客観性を確認するには、送受信による通信が欠かせませんが。――どうするか、いまここで決めてください」
「いま !?」
「これを見てください」
エイミーはウエストバッグから、一組になった小さな電子機器を取りだした。
「このタブレットのアクセスキーはこれです。もちろんやり方はわかりますよね?」
「もちろんだ」
「そしてこのキーは破棄、いえ、正確にいえば破壊キーです。どちらにせよ、タブレットにある極秘と機密が公開されるのは変わりません。公開されてもうちの組織にはそう大した打撃にはなりません。ですが軍にとっては違います。もし極秘情報が一斉に公開された場合、彼らにとっては取り返しのつかない事態に陥りかねません」
「……」
「ようするに、ここでこのタブレットにアクセスするか、破壊するかを決めて欲しいのです。もちろん膨大な情報ですから、アクセスするなら、これらはそのままあなたにお渡しします」
「そんな急にいわれても……」
「軍も愚かではありません。このなかにある情報を無価値にするために、彼らは常に装備やシステムの更新を欠かしません。ですから――」
「破棄してくれ……わたしは構わんよ」
「では、破壊でいいんですね? ルフトさん、それでいいんですか?」
「構わんよ、やってくれ」
「本当にそれでいいんですか?」
「……」
「ああ辛い! 辛いわ……。わたしこの仕事がこんなに苦しいものだと思ってもみませんでした。あなたは目を輝かせて喜ぶと思ったんです。だから引き受けた面もあったんです。でも違った。わたしにとっては、ちょっとした興味とスリルだったのかもしれません。……ごめんなさい、ルフトさん。今すぐどこかに行きたいほどはち切れそうな気持ちと、どこにも行きたくない気持ちがせめぎあっているような、あなたの心が見える気がするんです。――わたしには祖母がいるんですが……」
エイミーはそのあと、長々と祖母との歪んだ関係を話しつづけた。
俄雨が川面にいくつもの波紋を描きはじめたころ、二人は破壊作業に取りかかろうとしていた。
「キーのパスワードを口頭で伝えます。それを入力し終えたら、同時にキーを挿します。わたしがやってもいいのですが、ディッキーから厳命されてます、『必ず二人でやれ』と。つまり――」
「わかるよ、お互いの意思を行動で示さなければ嘘になる。そういうことだ」
「はい」
ルフトはエイミーからキーを受けとると、囁き声で伝えられたパスワードを入力した。
「ルフトさん、本当に破壊でいいんですか?」
エイミーの頬には涙の跡があった。
「ああ」
彼女の溜息とも深呼吸ともつかない吐息が、初夏の風に運ばれていった。
「それでは」
「……」
キーが二人の手で挿されたあと、タブレットの画面にパスワードを要求する認証表示が浮きあがった。
「わたしが二度目と四度目、ルフトさんが一度目と三度目の入力でいいですか?」
「ああ」
すべての作業が終わると、エイミーはタブレットから二本のキーを抜いて、すべてを川に投げこんだ。
水飛沫が立ち、大きな波紋ができたあと、しだいにそれは静まっていった。
「ルフトさん、わたし協力できることは協力します。いや、協力させてください。あなたのあんな哀しい顔を見てしまったら、もう後へは引けません」
エイミーはウエストバッグの小さなポケットにあるジッパーを開けて、なにかを摘みだした。
「わたし、あなたに会いにいくときは、これをどこかに付けることにします。目印です。――なにしろ、人を困らせるのが趣味なんで」
彼女が手にしていたのは、緑色のLEDだった。
降り止んだ俄雨の涼やかな風に吹かれる、ささやかな二人の笑顔があった。




