#25 ミーティング――密談
ハンツビルに屹立する、国際宇宙機構の統括本部長室に明かりが灯っていた。
ちょっとした望遠鏡があれば、それが男女二人の人影であることはわかる。しかし、この時代にありふれた超望遠カメラでも、それが誰かまでは見分けられない。もし、その人物を特定し読唇術を用いて会話内容を諜うかがい知ろうとするなら、少なくとも数メートル級の光学望遠鏡が必要だった。しかもそれだけでは足りず、受光データを高分解能で解析する必要があった。仮にそれができたとしても万全ではなかった。いつも動き回る大気によって、画像はつねに乱されているからだ。その擾乱法則を事前に分析しノイズを除去するシステムがあっても万全とはいえなかった。
地球の表層を優しく包む大気は、いつでも隠し事をしたい者たちの味方だった。
秘書室に通じる、桃花心木と紫檀が組みあわされた、不思議な佇まいの扉がノックされる音がした。
「エイミーです」
「どうぞ」
宇宙機構の制服をぴしっと着こなす、小柄の女性には凛とした雰囲気があった。
「本部長、例の件、手を焼かされましたが、なんとか説き伏せました」
「お疲れ様。なにしろ状況は深刻になるばかりだからね。――それで用件は?」
ディッキーの眼差しには労いがあった。
「ルフトさん、どんな方でした? 信頼できそうですか?」
「そうだね、頼れる親父さん。でも、一筋縄にはいかない。そんなところかな」
「それは良かったですね。この一か月、仕事とはいえ、わたしあの方の身辺調査をしてきたので、他人の気がしないんです」
「ほおお、そうかね。人とは一定の距離を取る君にしては珍しいね。なら、恐らくこの件は承諾してくれるだろうな。――エイミー、君いま時間はあるかい? あるなら、少し座って話しをしたい」
「大丈夫です。今日の仕事はぜんぶ片付けましたから」
「さすがは優秀な特級秘書だけはある。まあ、座ってくれ」
ディッキーは執務机から立って、すでに腰かけているエイミーと向かいあった。
そのエイミーは、散らかったテーブルに置かれた品々を、面白そうに検分していた。
「本部長、ルフトさんにタブレット、渡さなかったんですね」
「その件で君に頼みたいことがあるんだ。ちょっといいかな?」
ディッキーは、"もう少し近寄って"とサインを送ると、二人の顔が急速に近づいた。
耳元で囁かれる話しの合間ごとに、エイミーは何度も相槌をうっている。
しばらく、虫の羽音のようなやりとりがつづいたあと、唐突にディッキーの声が戻ってきた。
「そうだ君、珈琲でも飲んでから帰るかい?」
「そうしたいところですが、眠れなくなると困るので、止めておきます。それにわたし寝酒するタイプなんで、家に帰って老酒でも引っ掛けて……もちろん、シャワーを浴びてすっきりしたあとですがね。――でも、おつまみがないとお酒って進まないんですよね。――あれ? ここにあるフルーツ、なんですか? もしかして枇杷ですか?」
「ああ、それはとても貴重な品だよ。極々一部の人たちしか、それが作られている果樹園を知らないんだ」
「そうなんですか。果樹園てフランス語で、"Verger"でしたっけ?」
「そう、そのとおり。でもほら、ここを見てごらん。ここにεてマークが入ってるだろ? とても小さいけど見えるかな?」
「見えますね、確かに。でもこんな小さかったらルーペでもないと、普通は見えませんよ。それって意味があるんですか?」
「ある。もちろんある。大ありも大ありさ。もっともそのマークがどうやって記されているかは謎なんだ」
「そうですか……。世の中には変わったものに拘る人がいるんですね」
エイミーはそこで一旦言葉を切ったあと、考え深げな表情をしてからいった。
「でも、わたしそういうの意外と嫌いじゃなかったりします。――本部長、これ幾つかいただいてもいいですか?」
「もちろんだ。好きなだけ持っていっていいよ」
「枇杷はお婆ちゃんが好きなんですが、わたし、お婆ちゃんも枇杷も苦手なんです。でも、本部長の話しを聞いたら、少し考えがかわってきた気がします」
エイミーの口振りは、そこにありもしない枇杷を手に取って眺めているようだった。
「君はなんにでも興味を向け性質だから、感覚の磁石さえ狂わなければ、どこに行っても、上手くやっていけるんじゃないかな?」
ディッキーは徐ろにジャケットのポケットに手を入れて、一組になった小さな電子機器を取りだし、エイミーに手渡した。
彼女はそれを受け取ると、すぐに服のポケットにしまい込んだ。
「それと本部長、これ、お借りしてもいいですか?」
エイミーはテーブルに置かれたタブレットに目配せした。
「もちろんだ。それは、ある人に差しあげる積りだったんだ。でも、うっかり忘れてしまってね。その人とわたしとの共通の趣味なんだが、君が気に入る保証はできないよ」
「いや、平気です。わたし、案外こういうのもいける口なんです。もっとも、食べ物のほうがいいんですけどね。物って放っておくと嵩張りますから。とにかく、しばらくのあいだ貸してください」
そういって、エイミーはタブレットに手を伸ばして引き寄せた。
「あらまあ、難しそう。これバスク語ですか? いいんです読めなくても、挿絵を楽しむって手もありますから」
「君がそれを読んで頭のなかに詰め込めば、エイミー、君とわたしとあの人は同じことを共有したことになるんだが……それはそれで感慨深いね。まあ、あんまり深く考えないほうがいい。とにかく持って帰ってかまわんよ」
長々とつづいた一連のやりとりは隠語によるものだった。
この一か月間、人に知られぬよう二人が積み上げてきた、精巧な積み木細工ともいえる。
神経を擦り減らして疲れたのか、エイミーが綿のような吐息をついた。
「そういえば、今日ルフトさんに説教されたよ。君との電話の件でね」
「あらまあ、そうなんですか? わたしこう見えてタフですよ。あれぐらいでは動じません」
「いやまあ、そう思ってはきたんだが、いわれてみれば随分邪険ないいかたをしてきたなと、はっとさせられたよ」
「それで、これはなんですか?」
エイミーはテーブルに積み重ねて置かれた、LEDの箱を指さした。
「急な面会のお礼にもらったんだけど、説教にも関係があってね。カリカリしたときに数えなさいと……」
「ルフトさんてユニークというか、随分変わった方なんですね」
「必要ならそれも持っていっていいが、いらなさそうだね」
「いえ、ひとついただいていきます」
エイミーはそういうと、ディッキーの耳元に口を近づけて囁いた。
――目印になります。
「どうやら君とルフトさんには奇抜なところがあるようだ」
「さてと、それではわたしはこれで失礼します」
席をたったエイミーからは仕事の疲労感も、その日抱えたものの重さも窺えなかった。
両腕をソファーの背もたれに乗せてくつろいでいたディッキーは、彼女の物怖じない歩き方と、頭の後ろで二つの玉に纏められた髪を見送っていた。
「エイミー・ゾイ・オイ特殊秘書官殿、お疲れ様! 明日もよろしく頼みますよ!」
振り返った彼女は、
「"特殊"ではありません。"特級"です!」
といった。
ディッキーは口に手を当てたあと、
「そうだったね、"特級"だったね。これは失礼した」
と応答した。
「本部長、だいぶお疲れのようですので、今夜は早く休んでください。――それでは」
桃花心木と紫檀が組みあわされたが閉じたあと、エイミーの存在などなかったかのような空気だけがあった。
その夜、ディッキーは疲れ果てたのか、執務机につっぷして眠ってしまった。
午前零時を過ぎたころ、彼にそっとブランケットを掛けるリッキーに気づくものはいなかった。




