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Nichts――無  作者: イプシロン
Ⅱ ルフト
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23/55

#23 ディッキー――指輪

 かつてルフトが来客者を迎える立場でたびたび利用した応接室。

 その国際宇宙機構本部の最上階にある部屋は、内装こそ昔と大差なかったが、設備機器や調度品はがらりと変わっていた。

 絵画や時計、花瓶に飾られている草花は、ヴァルトの趣味に相当変化があったことを窺わせた。

 午後二時きっかりに本部長室に通じる扉が開いた。

「こんにちは、ルフトさん」

 気さくで飾らない挨拶をしたのは、四十代前半の男だった。

 小脇にタブレットを抱えている。

「アラバマまでの旅は楽しめましたか?」

 ヴァルトの全身には生気が漲っていた。

「これはこれはどうも」

 ルフトは我が口から、思ってもいない言葉が放たれたことに驚いた。

 しかし、先に廊下で別れたスタッフの制服を脳裏に浮かべ、自分が今いる場所と照らしあわせながら、ゆっくり席を立った。

「スケジュールをあわせていただき、ありがとうございます」

 そういいながらルフトは混乱していた。

「ええと……」

 二人は同時に口を開いた。

「まあ、お掛けください」

 先をつづけたのはヴァルトのほうだった。

 革張りソファーが軋むような音をたてる。

「あの……」

 再び、二人は時を同じくして切り出した。

 しばし応接室は沈黙に支配された。

 ルフトは、自分を疑いに疑った。しかし、どうしても自分が悩乱しているとは思えず、意を決して話しはじめた。

「あなたが、ヴァルトさんですか? 国際宇宙機構本部長の?」

「ええ、そうです。ほらここに」

 そういって彼は首から下げた身分証をかざした。

「ですが、そういったものは偽造もできますよね?」

 ヴァルトの顔に幾分困惑が浮かんで消えたあと、闊達に語りはじめた。

「ルフトさん、少しばかりお互いに確認しあわないと、恐らくお話しにならないかと。しかし、わたしもどういう順序で話せばいいか、よくわからないのです」

「いや、そもそもわたしの知っているヴァルトはわたしより五歳年上なんだ。なのに、いま目の前にいる君はどう見ても四十代にしか見えんのですが、これは目の錯覚ですか?」

 ルフトの手は小刻みに震えていた。

「錯覚ではありません。わたしは紛れもなくヴァルトです。ヴァルト・ディッキヒト・エーアハルトです」

「ディッキヒト? 君のミドルネームはエーべネのはずだが? それに君がわたしの知るヴァルトであるなら、今年七十七歳のはずだ。それなのに君はどうみても四十代にしか見えない。――宇宙機構はタイムマシンや若年齢化装置(ウラシマシーン)の開発にでも成功したのかね?」

 ルフトの荒々しくなる語気が応接室を震撼とさせはじめた。

「まさかそんな。タイムマシンなど今も未来も夢物語ですよ、ルフトさん」

「いいや、わからんよ。なにしろわたしは長い時間をかけて……いや、なんでもない。困ったな、どう説明したらいいもんだろうか……」

 ルフトは顎髭をつまんでは引き、またつまんでは引いている。

「とにかくタイムマシンも若年齢化装置もありません。わたしは、ヴァルト・ディッキヒト・エーアハルトです。そしてわたしの父は、ヴァルト・エーべネ・エーアハルトなんです」

 ヴァルトは屈託のない笑顔でそういった。

「なんだって? いまなんていったね? しかし、君のその指輪は変わらんではないか。それはわたしたちの卒業記念のカレッジリングではないのかね?」

「これは父の形見です」

「形見? ヴァルトはもう生きておらんというのか? ――だったらなぜわたしに訃報が届かなかったんだ? そんなおかしなことがあるか! 宇宙機構はそこまで杜撰な組織ではないはずだ」

「落ちついてください、ルフトさん。父は十二年前に亡くなりました。そして、こういう複雑な事情になったのは遺言のせいなんです。その遺言をそのまま実行したのが理由なんです。――ルフトさん、あなたが六十歳で自宅勤務に切り替えられたあと、父は急速に衰えてすぐに亡くなりました。ですが、父はなによりあなたの安穏な生活を壊したくなかったのです。わたしも母も随分悩みました。なにしろ、あなたの我が機構への貢献や実績を考えれば、非礼極まりないんじゃないかと。ですが、父は一般葬さえ望んでおらず、特に(ふる)い友人に対しては大変に心を砕いていたんです。――父の我儘からわたしも随分苦労しました。まるで、影武者のような本部長だった期間は永遠のように感じたものです。――これでご納得いただけましたか? どうぞ、お怒りにならないでください。先日の電話での対応は切にお詫び申しあげます。ですが、あなたが父の旧友のルフトさんだと、あの時にはわからなかったのです。あれからすぐ総務と人事から資料を取りよせ、身の縮む思いでしたよ。これまでお話したことや、それ以外もすべてこのタブレットに記録されています。今ここでご確認されても結構ですよ」

 ルフトの頬に一筋の涙が光った。

「すまんがその指輪、見せてもらえんかね」

 ヴァルトの差し出した指輪は間違いなく旧友のものだった。

 裏側には、"W & E 0000.09.23 Deux vies"と彫金されていた。

 Wはヴァルト、Eはエポラール。四つ並んだゼロは、北部宇宙暦から標準宇宙歴に変わったことを表し、"Deux vies"は、"二人の人生"というフランス語だった。その指輪は、ヴァルトが二十二歳、エポラールが二十歳、ルフトとシレーヌが十七歳だった時を刻みつけたまま、凍りついていた。

 それから二人は、過去のことを納得ゆくまで話しあい、話題は自然と現在へ移っていった。

「それで、これはわたしにとって、ある意味で本題なのだが――」

「《リヒト・スヴィエート号》と、その通信回線のことですね?」

 ルフトの率直さにヴァルトは実直に応えた。

「その件もまた非常に複雑怪奇でしてね」

 本題はここだ、という緊迫感が張り詰めたとき、ノックの音がした。

「ディッキー、わたしです。リッキーです」

「入って構わないよ」

 開いた扉の向こうには、上品そうな四十代の女性が、二つのティーカップを銀のトレーに乗せて立っていた。

「あなたったら、失礼なんですから。お客様にお茶もお出ししないなんて。秘書のエイミーから聞いて飛んできましたよ。なんでも、わたし以外入室禁止なんですって? 戦争でもはじめるおつもり?」

「ディッキー?」

 ルフトが不審顔で訊いた。

「わたしのミドルネームの愛称です。妻はヴァルトと呼ばないんです。例の影武者のころから妻はずっとわたしを支えてくれてるんです。父とは犬猿の仲、とまではいきませんでしたが、随分とやりあったみたいで。ヴァルトという名前があまり好きじゃないみたいでね」

「あなた、余計なこといわないの! あとでお仕置きよ」

「おお、怖い怖い。こんな柔らかい物腰ですけどね、逆鱗に触れるとそれはもう。白旗なんて役立たずですから。負け戦なんてもんじゃないですよ」

 ディッキーと呼ばれた、ヴァルトJr.はけらけらと笑った。

「でも、お母様にあまり似てないんじゃないかな?」

 ルフトはテーブルに置かれた、端の擦り切れた写真におさまった、豊かな黒褐色をした髪の女性を指さした。

「ああ、いかんいかん。そうだ、ヴァルトはエポラールとは一緒にならなかったんだった。すまないね、奥さん。人間歳をとると、なんでも自分の見たいようにものを見るようになってね。事実なんて簡単に捻じ曲げてしまうんですよ。いや、これは失礼した。――でも、あなたのお顔立ちからして、お母様もとびきりの美人だということはわかりますよ。ええ、確実です!」

「まあ、御冗談のうまい方ですね。ともあれ、ごゆっくりしていかれてください。何でも遠路はるばるコロラドからいらしたんだとか。わたしなんて、生まれてこのかたアラバマを出たこともないんです。外の世界は想像もつきません。――それでは、わたしはこの辺で」

 そういうとリッキーは夫に目配せして、応接室を立ち去った。

「今の見ましたか?」

 ヴァルトはリッキーが消えた扉を指さしていった。

「なんですかな?」

「アイコンタクトみたいなものです。『あなたの後ろにはコーヒー・メーカーがある。必要ならあなたが淹れなさい。お客様のお好みしだいですが、紅茶がいいようなら、わたしを呼びなさい』ということです」

「阿吽の呼吸ですか。家族的なのはいいもんです。ディッキーにリッキーにエイミー、音の響きも揃っていて、なんだか気持ちがいい。わたしらの頃は、もう少しぎすぎすしていてね。もちろん冗談もいいあったが、君らのようにはいかなかった。宇宙機構も世代交代したんだとつくづく感じるよ。でも、こういう明るさはいいね。宇宙なんてのは知れば知るほど不毛だと思えてくる。それが老いるということかもしれないが、新しい世代に少しでも明るい宇宙を手渡したい。そんな気持ちでやってきたんだが、あまり上手くいかなかったみたいだ。――それにしても、夫婦ってのはいいね。何組も見てきたが、君らのようなのは珍しいよ。これはお世辞ではないよ。――そうそう、親愛の情を込めて、これからは君のことをディッキーと呼ばせてもらってもいいかな?」

「構いませんよ。親父は早く逝きすぎたもので、なんだかあなたが父親がわりに思えますから」

 ヴァルトJr.ことディッキーは、なぜ父がルフトのことを高く買っていたのかが、わかった気持ちがしていた。

 ――世の中には、人と人を繋ぐ名人がいると聞いてきたが、現実にはなかなかそういう人はいなかった。でも、このルフトさんはきっと本物だ――。

「さて、では話を本題に戻しましょうか」

 その声の主は、ルフトではなくディッキーだった。

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