#22 グリーティング――現実
アラバマ州ハンツビルに朝が訪れた。
相次ぐ葛藤からルフトの胸はどんよりと曇り、ところどころに灰色のちぎれ雲が浮かんでいた。しかし、アラバマの空にはどこまでも青空がひろがっていた。
ルフトは、国際宇宙機構の業務開始時間の午前九時になると、携帯電話を手にとった。
三度目の呼出音のあと、女性対応係の声がスピーカーを振動させた。
――はい、国際宇宙機構本部です。
「すみません。ルフトと申しますが……」
――ええと、ルフト・ドルヒェ・フォン・ミーアハイム様ですか? ……であれば、本部長から伺っています。おおよそのご用件は把握していますが、その件でしょうか?
彼は、先日とはうって変わった対応に、いささか戸惑いを覚えた。
「ええ、その件で本部長のヴァルトさんと面会したいのですが」
――お急ぎのようなら、本日午後いらしていただいても構わないと、本部長から言伝がありました。どうされますか?
「もちろん、そうさせてもらうよ。それで、時間は何時ごろなら?」
――お時間は、ルフト様のご都合でいいそうです。
「では、二時ということでどうですか?」
――はい、承りました。本部長にはその旨伝えておきます。……ほかになにかありますでしょうか?
「いいや、十分です。まさか、こんなにすんなり運ぶとは思っていなかったもので。ヴァルトに……あいや、彼とは古くからの友人なものでつい……。とにかくお礼をお伝えください」
――かしこまりました。ご来訪お待ちしております。それでは失礼いたします。
ルフトは、電話が切れるのをオペレーターが待っていることに気づき、胸を撫でおろすように、"終了する"という表示をタップした。
「あと五時間か……長く感じるな。普段ならあっという間に過ぎるのに、こういうときは時間が経つのが遅いんだ。――この手持ち無沙汰はどうしたものか……」
ルフトはそわそわしながら紅茶を淹れ、本とペンダントを愛で、手揉みしながら部屋を行ったり来たりしたあと、窓辺に置かれたテーブルとセットの椅子に腰かけた。
それはまるで、ヘーリオスが手綱をとる太陽の戦車と、追いかけっこをしているようだった。
座り心地の悪くないクッションだったが、それすら我が身に繋がれた鎖のように思われた。
「そういえば、彼女が出発する日もこんなだったな」
ルフトは、哀しくもあり美しくもあった別れの情景を思い起こそうと、天井を見つめながら無造作に上着のポケットに手を入れた。
「あのときは確か……ん?」
指先に痛みを感じさせたのは、緑色のLEDだった。
彼は突き動かされたようにトランクを引っ掻きまわし、箱詰めされた無数のLEDと、検査機器を取りだした。それからテーブルに戻ると、LEDをひとつまたひとつと無心になろうと点検しはじめた。
「あのときは、ネライダの設計に不備がないか、徹底的にチェックしたんだ。計算機科学的にも宇宙生理学的にも、そのほかの学問的にも不備はないかって……そうして納得したんだ」
それでも、湧きあがってくる胸のざわつきは、なかなか治まらなかったが、しだいに作業に没頭していった。
ルフトは、こうして人生で二度目の一番長い日ともいえる時間をやり過ごしたあと、身支度を整えてホテルの部屋を後にした。
メタリックグレーに塗られた超電導タクシーはハンツビルの街から南を目指して走っていた。
車窓の外を行き交う人びとも、時間と競いあっているようにルフトの目には映った。
「誰もが孤独か……時間だけが裏切らない友人なのかもしれんな……」
「なにか仰いましたか?」
運転手は呟きとも囁きともとれない声に反応した。
「いいえ、なんでもありません」
「もうあと五分ほどで到着です。お帰りの車はありますか? 大体の時間がわかればお迎えにあがりますが?」
「いえ、結構です。その、時間というのがよくわからないもので……」
「はあ、そうですか。あ、見えてきました。近頃は警備が厳しいので、駐車場までになりますが、大丈夫ですよね?」
「それでいいです。かつて知ったる庭みたいな――あいや、なんでもありません」
ルフトは駐車場に降り立つと、様変わりした本部周辺施設のあちこちを眺めながら、玄関のガラス扉へと足を進めた。
すぐに、受付の女性が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ、いいお天気で、いかがなされましたか? ミーアハイム様ですね、左様でございますか、それではこちらへ」
数々の社交辞令を浴びたあと、案内役の女性職員に付き添われたルフトは、エレベータで最上階へと運ばれ、応接室の扉前まで案内された。
金髪でスカイブルーの瞳をした女性は二十代後半で、どことなくシレーヌに似た風貌をしていた。
何気なく名札に目を落としたルフトは、一瞬卒倒するような衝撃に痺れ凍りついた。金色に輝くラメ調アクリルの小さな板には、"Sirène"という文字が刻まれていた。
そのとき、女性スタッフは慇懃な態度で、両手を胸に添え軽く会釈をした。
「では、失礼します。またお会いしましょう」
ルフトは我とわが目を疑いながら何度も瞬きし、その女性を茫然と見送った。
「宇宙機構の制服を着ているんだ、似て見えてもおかしくないじゃないか」
それから彼は、赤みがかった麻栗樹材でできた扉をノックした。




