#21 アザーン――こと座の歌
国際宇宙機構の統括本部長であり、旧友でもあるヴァルト。
ルフトは、彼との面会に時間がかかると考え、アラバマに着くと念のために一か月の滞在予定で宿をとった。その際、ルフトらしくない強引さから、フロントでちょっとした揉めごとを起こした。
「とにかく、見晴らしのいい部屋にしてくれ。いいや、それでは駄目だ。朝も昼も夜も屋外が展望できる部屋でないと困るんだ。――わたしは気が滅入りやすい性質なんだ!」
最後のひとつは、嘘とも本当ともいえなかったが、ルフトの姑息さに根をあげたのか、担当した従業員は、終いには副支配人を呼んで対応した。
彼の要求は非常にシンプルだったのだが、時代趨勢や都市化の波からして、それは困難な要求でもあった。
部屋に落ちついたルフトは、軽く荷解きを済ませると、そそくさと大きな窓を開けた。
ハンツビルの丘に立ったホテルの三階から見える風景は侘びしかった。色とりどりに灯った明かりが、かえって景観を損ねているように見えた。唯一、彼の目を引いたのは、数マイル先で尖塔と丸屋根をわずかに覗かせているモスクだった。かつてそこには、別の建物があったのだが、彼がハンツビルから足を遠ざけていた間に、新しく建築されたらしい。
ルフトは、フロントで借りたオペラグラスを持ちだし、そのモスクを眺めた。
「なにか、あそこだけ異質な感じだが、妙に美しさがある。しかし、この程度では大して良く見えないな。わたしとしたことが、双眼鏡や望遠鏡など、家に幾つもあったのに……」
そういって、オペラグラスを窓辺のテーブルに戻すと、彼は視線を夜空に向けた。
「今夜も見えるな。夏の大三角形は」
ルフトはきらきら光る三つの星を目にすると、いい知れぬ安堵を覚えた。
それから、キッチンへ足をはこぶと、カルハリアスが持たせてくれた紅茶を淹れた。湯煎はもちろん冷めても喉越しのいいリゼ産の紅茶。
芳醇で茶葉本来の香りに、何十年にもわたる日常の匂いがあるような気がした。
ルフトはカップを手にして窓辺へ戻ると、テーブルに置かれたタブレットを手にした。
「以前、ムスリムの友人に教えてもらったが、なにしろ彼らは記憶厳守で、メモはほとんど許さなかった。祈りの言葉は憶えるのが当然。そういって叱られたっけ……」
タブレットの画面には、その祈りの言葉が映し出されていた。
――アッラーフ・アクバル。
「『アッラーは最も偉大なり』。これは有名すぎて、さすがに忘れることはない」
――アシュハドゥ・アン・ラー・イラーハ・イッラ・ッラーフ。
「『私は証言する、アッラーのほかに神は無し』」
――アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダン・ラスール・ッラーフ。
「『私は証言する、ムハンマドはアッラーの使徒なり』。――それで……」
「そのつぎは、『ハイヤ・アラ・ッサラーフ』ですね。意味は『礼拝に来たれ』です」
「ネライダ、まさかおまえか !?」
彼は画面から顔をあげると、夜空で輝くこと座のベガを凝視した。
なかば、期待していたとはいえ、立てつづけに起こる奇跡のようなことが、にわかには信じられなかったのだ。
しかし、それ以上はなにも起こらず、ベガも沈黙したまま煌めいていた。
ルフトは幻聴かと、我とわが耳を疑いながら、画面に視線を戻した。
――ハイヤ・アラ・ルファラーフ。
「『救済のために来たれ』か、いい言葉だな」
「その次は、『アッサラートゥ・ハイルム・ミナ・ンナウム』です。意味は『礼拝は睡眠にまさる』」
「ネライダ、君ではないのか? どこにいるんだ? いるなら姿を見せてくれ」
「ルフトさん、残念ながらわたしには姿形がないんです。わたしは歌であり、祈りのようなものですから」
「歌であり、祈り?」
テーブルに置かれたオペラグラスに手が伸ばされ、レンズはベガの光を捉えた。
「ねえ、ルフトさん。本当に『礼拝は睡眠にまさる』と思いますか? わたしは眠ることもまた素敵なことだと、教えてもらいました。――でも、わたしは眠ることができない運命らしいのです。もっとも、起きていようが眠っていようが、大して変わらないのが、わたしなんだとか」
「ネライダ、君のいってることがよくわからないよ」
「では、歌でも一緒に歌いますか? 祈りの言葉は憶えていますか?」
「どれを唱えればいいんだ? わたしにはわからない。どうすれば――」
「仕方のない人ですね。わたしのご主人様とお話しして、思いだしてください。わたしたちは、ここにいます」
刹那、冷めきっていたリゼから湯気が立ちのぼり、モスクのほうへと漂いだした。
尖塔と丸屋根は燦々と光り輝き、祈るような声が聞こえはじめる。
「睡眠と礼拝は等しい……睡眠と礼拝は等しい……」
その声音が高まるとともに、地上から水滴の勾玉がつぎつぎに舞いあがり、やがてそれは大海となり、鈴波が怒涛のように押しよせ、モスクは海底にある竜宮城となり、水の陽炎で揺らめいた。
小さな人影のようなものが、ぐんぐん近づいてきて大きくなる。
ルフトはそれに向かって叫んだ。
「シレーヌ!」
――間違いない!
窓のすぐ傍まできたシレーヌは、以前と変わらず虹色に輝く貝殻をあしらった白いレースの衣装を纏っている。足先は靄に覆われ人間とも人魚ともつかない。彼女は黙ったまま大きな本を大切そうに胸に抱いて微笑んでいる。
「ああ、その本のことならもう大丈夫だ。すっかり思いだしたんだ。ほらこれを見てくれ」
そういうとルフトは胸元のボタンを外し、二匹の蛇が絡みあいながら互いの尾を咥えているペンダントを見せた。
「そう、ルフト。それでいいのよ。わたしたちはじめから知っていたはずよ。互いが忘れるしかないことを。――ねえ、憶えていて? わたしたちがはじめて心から感動したあの本のこと。そのタイトルはいえて?」
「ああ、憶えているよ。忘れるわけがない。それはぼくたちが誓ったことだからね。『たのしい川べ』さ。カワネズミとモグラの風変わりな二人組が、川下りする愉快なお話しだね。ほら見て、ここにあるよ」
そういって、ルフトはトランクを開いて、取り出した本を両手で掲げた。
「あれから随分なるのね。ルフト、あなたはまだ憶えていて? 原初の神、パンが葦笛を吹いた場面を。わたし、あなたの朗読を聴きたいわ」
「ちょっとまってくれ。――ああ、ここだ、はじめるよ。『喜びを悩みに変えぬよう、恐れしことを忘れよ、力なきときにはわたしを頼れ、されど、忘れよ! 手足の傷つき、折れぬよう、わたしは罠を外しておく、そのときわたしを見るかも知れない、だが、すぐそれは忘れられる! 忘れよ! 忘れよ!』」
「素敵な声だわ、なんて麗しいんでしょう。――ルフト、もうなにもいらない、なにもいらないのよ。もういい、もう憶えていなくてもいいのよ。なにもかも忘れるの」
そういうと、シレーヌは胸に両手で抱えていた本から手を放した。
本は波間に沈みながら、散り散りになり、星屑のようなさざめく調べを奏でた。
「シレーヌ、忘れないでくれ、憶えていて欲しいんだ」
「ルフト、忘れていいの。憶えていてはだめ」
彼女は、満面の微笑みを溢れさせながら両手を振った。
「さようなら、ルフト」
「シレーヌ!」
とたんに空中に浮かんだ、人間とも人魚ともつかない輪郭がぼやけ、少しずつ波に飲まれて消えていく。
「ルフト、思い出って不思議ね。どこまでも追いかけてくる悪魔みたいね。悪魔同士なかよくするわけにもいかない。だって悪魔なんですもの。彼らもまた孤独ね。でも、思い出は素晴らしいわ。みんなに夢や現実やいろいろなものがあったと囁くんだから。決して忘れないと思ってたのに消えてしまったり、思いだしたくて仕方ないのに見当たらなかったり。きっとそんな意地悪をしながら楽しんでいるのよ。素敵ね、わたし思い出になってみたいわ。――誰かのなかを行ったり来たりして、誰でもない誰かになれるなんて、わたしたちの誓いにぴったりじゃない? そう、どちらも思い出なんだけど、呼んだり呼ばれたりしてるだけ。でも、思い出は思い出よ! なにも変わらないわ。だからルフト、忘れて! 忘れることで思いだせるの」
「無理だ! 君のことを忘れるぐらいなら、死んだほうがましだ! いや、ぼくにとって忘れるのは死と同じなんだ!」
ルフトは霞みゆく彼女を見つめながら、腰から力が抜けたように尻もちをついた。
転倒した勢いで、手足が傍にあったテーブルに当たり、置かれていた物がつぎつぎ床に落ちた。
「頼む、忘れないでくれ……忘れさせないでくれ……」
シレーヌが消え去ったあと、ルフトは散らかったままの床に座って、長いこと項垂れていた。
足元に空になったティーカップ。そこから立ちのぼったリゼの香りが、彼を正気づけた。
一滴すら残っていないカップを拾いあげると、ルフトはぽつりと呟いた。
「シレーヌ、君のいったことの意味がわかった」
その夜、彼はペンダントと本を抱いて仮宿のベッドに潜り込んだ。




