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Nichts――無  作者: イプシロン
Ⅰ シレーヌ
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#2 ドリーム――卒業式

 その部屋は空虚ではなかった。

 見渡せば、宇宙船という特殊な環境を感じさせる設備が、随所に見え隠れする。

 ゆったりとした室内には生活感が溢れていた。幅広い寝椅子は清潔に整えられ、テーブルには今では珍重される紙の本が数冊、読みかけのまま無造作に置かれている。

 だが、ここでもあの機械的で不気味な空調音だけは止むことはない。

 シャワーを浴びローブに身を包んだシレーヌは、濡れてボリュームのなくなった金髪をタオルで宥めながら、ベッドに腰かけた。

 異質なのはただひとつ、手首にあるリストコムだけ。それさえなければ、地球の一般女性のひとり暮らしを彷彿とさせる空気があった。

「誕生日ね……」

 独り言を声にして呟くのは習慣化していた。

「そういえば、20歳の誕生日はルフトと祝ったんだっけ。彼の誕生日だってお祝いしたわ。17歳で卒業だったけど、長いような短いような大学時代だったわね」

 シレーヌはそういいながら腕を伸ばし、ナイトテーブルから写真立てを手にとった。

「ルフトは……あんなにも歳をとって、でもわたしは……仕方のないこと。この任務ではわかっていたことよ。そう、『鉛の兵隊』ね。でも、わたしは帰るわ。折り返し地点はもうすぐそこ」

 彼女の目は潤んでいたが、哀しみによるのではなかった。

 そのとき、テーブルに置かれていた本が落ちた。

「なによ、あなたもわたしに用があって? なにをお望み?」

 床から拾い上げられたのは、古典童話『果てしない物語』だった。

 シレーヌは背表紙に金箔押しされた文字を、指で愛おしそうになぞって、写真立てと本を抱いて、布団に潜り込んだ。

「今夜もいい夢を見るのよ。お守りが護ってくれるわ」

 そうして、目を閉じたあと、彼女は腕を口元に近づけていった。

「ネライダ、船長室を消灯して」

 途端に部屋は闇に覆い尽くされた。


 星の海をゆく《リヒト・スヴィエート号》は、永遠の夜の中に浮かんでいる。

 ときどき、思いだしたように船体の各部にある噴射口から、プラズマを吐き出しては、姿勢と加速を制御する。人体に違和感のない1Gを保ちながら。

 宇宙の夜は真の闇。底の見えないブラック珈琲だった。昼はそこに垂らされるミルク。光と影は決して混ざりあわない。大気のない黒い海で星は瞬くことを忘れ、黙念とそれぞれの色のまま沈黙している。

 しかし、自室で眠りに落ちたシレーヌには、それとはまた違う夜があった。

 彼女は夢を見た――。

 耳元で突然の爆発、火薬の匂いのあと、頬に触れる紙吹雪。

「卒業おめでとう!」

 青空につぎつぎに投げあげられる、アカデミック・キャップ。

 群衆に揉まれながら、繋がれた手から感じるルフトの温もり。

「おーい、特待生! 卒業後の進路は決まってるのか?」

 ヴァルトの声。5歳年上の同級生だ。

「自分?」

 重なった声。リヒトとわたしのだ。

「お二人さんは、仲良しだし、二人のことは誰もが注目してるぜ」

「僕は計算機(コンピューター)科学(・サイエンス)

「わたしは宇宙(スペース)生理学(・フィジオロジー)

「そうじゃなくて、お二人の恋のゆくえを訊いてるんだ?」

 耳に火照りの感覚がのぼってくる。

「僕ら、まだ17歳だよ、今は考えてないよ」

「きっと時間が答えなんじゃないかしら?」

 ルフトのまだ幼さの残った瞳、誠実そうなヴァルトの瞳が重なって浮かびあがる。

「そうかもな――でも……」

 声が遠のく、瞳が迫ってくる。問うような強い眼差し。――純白の光。

「夢?」

 シレーヌは目を覚ました。

「……夢か、夢ね。――昔のことでもあり、今追いかけてるもの。夢って不思議ね」

 彼女は確かめるように囁き、乱れた髪をなおそうとブラシに手を伸ばした。

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