#19 カルハリアス――使用人
ルフト邸の庭に聳える杉は、朝日が昇るのを待っていた。
夜明けとともに、緑の葉々はまるで背伸びでもするように気孔を開き、二酸化炭素をとりこむと、すぐに光合成をはじめた。
樹齢五十年を超えても、杉はなんのためらいもなく、日課にはげんでいた。
ルフトもまた、いつものように早めの朝食を終えると、外出の準備をはじめた。
前日にあった奇跡のような衝撃的な出来事は、彼の心に地殻変動を起こした。だが、ひび割れた大地から奈落に墜ちることはなかった。
トランクを持った出立に気づいた使用人のカルハリアスは、柔らかな足音とともに近づいてきた。
「旦那様、お出掛けですか?」
「ああ、すまんが送迎車を呼んでくれんか。長距離用のね」
「そのご様子ですと、今夜はお帰りにならないようですね」
表情にも声音にもあらわれていなかったが、使用人は事の異常さに気づいているようだった。
「うん、そうなるかもしれん。――そうだ、こんな機会だ、君もひとつ家族や親類と過ごしてみたらどうかね? 三日や五日なら、わたし一人でもなんとかなる。君には良くしてもらってきたのに、大した気遣いもできなかったからね」
「ですが……」
カルハリアスが口ごもるのは珍しいことだった。
「ああそうか、これは失敬した。君には家族がいなかったんだったね。これは済まなかった」
「いいえ、とんでもありません」
ルフトは突然なにか閃いたようだった。
「そうだ君、ここから三ブロック先に住む、エポラールの婆さんは知っているかね? 婆さんといっても大学と研究所での同窓生でね。昔はなかなかの美人で、大きな夢を抱いてたんだ。でも、結婚をめぐって苦渋を舐め、それから偏屈になってしまった。根は善良なんだが、どうかな、そのエポラールと過ごしてみては? ――いや、無理にとはいわんよ。話しはじめたら放っておけば半日でも、銃火の止まない機関銃のように口達者な婆さんだからね。どちらにしても、あの婆さんと付きあうなら小遣いもいるだろう。これ、とっておいてくれ」
「旦那様、これはいかにも多すぎます。普段の三倍もあるじゃないですか」
ルフトとカルハリアスの間を何度も紙幣が行き来する。
「いいから受け取りなさい。――それとこれ」
そういって、彼はトランクから、グリムとアンデルセンの童話が詰まった単行本を手渡した。
「エポラールもずいぶん変わってしまった。けれど、女というのは幾つになってもこういうのが好きなんだ。これをネタにすれば、そう面倒な話もせんだろう。それにほら、これだけの分量があれば、ちょっとやそっとでネタは尽きんだろう。あの女も君も、しばし浮世を忘れる時間も必要だろう。わたしのように夢ばかり追いかけてきた人間がいうのもなんだがね」
「わかりました。本当にありがとうございます」
「そう堅苦しくせんでいい。君も自分の人生を生きなければ。わたしの為ばかりではなくね」
「お心遣い、感謝の言葉もございません」
使用人は、深々と腰を折ってその言葉に嘘のないことを示していた。
「さあもいいから、車を手配してくれないかい」
「はい、すぐにでも」
そういうと、カルハリアスはもう一度軽く会釈をして、玄関広間を出ていった。
その場に残ったルフトは長椅子に腰掛けると、使用人が淹れた紅茶を手にとった。
長い立ち話のせいですでに冷めていたが、彼は飴色の水を揺らして、甘い夢を眺めているようだった。
「旦那様、お待たせしました。予約制ゆえなかなか捕まりませんでした。一時間ほどで到着するかと」
「そうか、手間をかけさせたね。ありがとう。――では、ちょっとその間、座って話でもせんかね」
「はあ……」
カルハリアスは逆らうことなく、もうひとつの長椅子に足を揃えて座った。
「気楽にしてくれ。もう、そういうのはよしてくれ。――その……なんだな、君の生い立ちを聞かしてくれんかね?」
「はあ……それが……」
「どうしたんだね? そんな顔をして……」
それから、車が来るまでに使用人が話したことは、実に数奇な運命といえた。
カルハリアスが涙ながらに語ったことを、ルフトは車に乗ってからもずっと考えていた。
――誰もみな孤独を抱えている。わたしはもちろん、あの使用人の男も、エポラールも、そしてシレーヌも、みな孤独な星だ。しかし、必死に輝いてなにかを伝えようとする星と、輝くことすら諦めてしまい沈黙している星もある、なかには大爆発を起こしてブラックホールになる星もある。その間を埋めているのは、真っ暗な宇宙だ。しかし、光はそれらを差別なく照らす。ようやく彼女の本当の夢がわかった気がする。しかし、わたしは弱い。シレーヌという光なくしてはどうしようもないのだ……。ヴァルト、君はそうではなかったのか?――。
ルフトは、自分の無力さを呪いながらも、そのシレーヌが乗っている《リヒト・スヴィエート号》の消息を掴むために、遠路はるばる国際宇宙機構の本部を目指したのだった。
彼の手のなかには、国際宇宙機構の制服を着た四人が写った、端が擦り切れてしまった写真が握られていた。ルフトとシレーヌ、ヴァルトとエポラール。かつての恋人たちの、にこやかな笑顔がそこにはあった。




