#18 ヴィジョン――夢現
ルフトのデスクにある内線電話が鳴った。
――旦那様、夕食のほうはどうされますか?
感情の抑揚を滅多に感じさせない使用人の声がした。
「今日は気分が優れないんだ、なにか適当に作りおきして、君はもう休んで構わんよ」
――かしこまりました。それでは今夜はこれで失礼します。
造作のない切れぎれなやりとりだったが、ルフトはカルハリアスの沈着と静寂さにずっと救われてきように思えた。
「同い年の主人と使用人というのは珍しいものなのかな? まあ世の中いろいろあるさ」
ルフトは怒りと悲しみの入り混じった火照りを冷まそうと、椅子から立ち上がり両開きの窓を開けた。
とっぷりと日が暮れた空に、三つの星が瞬いている。
「あれは、デネブとアルタイルとベガだな。ベガはこと座の一等星。天の川を挟んでいる、はくちょう座とわし座を見守りながら、なにを奏でているんだろうか? やはり、慰めの調べなんだろうか?」
涼しい風が吹き込んでくる。どこからかコヘンルーダの香り。
ルフトは初夏の漂いに導かれたかのように、肘掛け椅子に戻ると、揺れるカーテンと瞬く夏の大三角形をぼんやりと眺めていた。
「歌ですか? わたし、歌はまだ上手に歌えませんよ、ルフトさん」
「なんだ !?」
彼はなぜかわからずに、夜空のベガを凝視した。
「でも、随分言葉は憶えましたし、粋なお喋りもできるようになりました」
「ネライダか? おまえなのかい? ――いいやそんなはずはない。幻聴か !?」
ルフトは慌てて、自分の頬を叩く。
ぱちんという音と痛みがあった。
「ネライダの声は、できる限り集めたテノール歌手の声を調整して作ったんだったな。そういえば――」
彼はおもむろに首を回すと、壁に据えつけられた電子書庫と紙の資料がつまった棚に視線を向けた。
「たしかこの辺に。――いや違うな。では、あの辺だったかな?――駄目だな、アーカイブのが早かろう」
そう呟いて、デスクの上にあるモニターにアーカイブを呼び出した。
「おかしいな、絶対にあるはずなんだが」
星明かりが、ルフトの首筋に流れる冷や汗を照らしだしていた。
「どうなっているんだ」
「ルフトさん、そんなに慌てないでください。大事なものはそんなところにありません。すべてわたしが預かったではないですか」
「ネライダ、ネライダなのか? ――ショックで気でも狂ったのか 、俺は !? 」
ルフトは自分の手の甲を抓った。それでも飽き足らず腿を抓った。
痛みに顔をしかめる。
「幻聴ではない。しかしこれは現実なのか?」
そのとき、こと座のベガが、まるで"ここだよ"というように何度か瞬いた。
そしてそこに、かつてネライダと何度もやりとりした懐かしのモニターが見えた。
表示される文字列を読み上げるような、テノールの美声。
「でも、ルフトさんが逢いたい人はわたしではありませんよね。ええ、それはわかっています。でも、わたしにお二人を繋ぐ役割を与えたのは、あなたであり、シレーヌさんでもあります」
「ああそうだ、そのとおりだ。それで、シレーヌは元気にしているのかい?」
もはや彼はそれを現実だと捉えていた。
「わたしがどうこういうより、お逢いになってください」
その声とともに、窓のすぐ外の空中にシレーヌの姿がくっきりと浮びあがった。
「シレーヌ、本当に君なのかい?」
瞬きを繰り返し目を擦るルフト。だが、シレーヌの姿はまったく揺らがない。
虹色に輝く貝殻をあしらった白いレースの衣装が風に靡いている。
揺れるカーテンが波打ち、うねる海が彼女の下から盛りあがってくる。敷波が足を隠して見えなくしている。シレーヌは黙ったまま、胸元に金色に輝く短剣を大事そうに抱えている。
ルフトは言葉を交わせば、その瞬間に彼女が消えてしまいそうな気がしてならなかった。
「あの短剣、見覚えがある」
彼はデスクに置かれたスタンドから彼女が持っているのとそっくりな、ペーパーナイフを手にした。
「そう、ルフト。それでいいのよ。わたしたちはじめから知っていたはずよ。互いが犠牲を払うしかないことを」
それはルフトにとって、紛れもなく彼女の声だった。
「シレーヌ!」
足を隠していた敷波が静まり、輝く宝石のような玉波が眩い。
「人魚 !?」
「ルフト、憶えていて? わたしたちがはじめて出逢ったころに読んだあの本。そう『人魚姫』よ。あなたは激しく同情したわ。海に帰りたくもあり、王子と一緒にいたくもある人魚を。結局、どちらも叶わず空気のような泡になってしまったこと。あなたは本気で怒った。ぼくは絶対に君にそんな思いはさせない。あなたがそういったのは、それから何年か経ってのことよ」
「ああ、憶えているよ。忘れるわけがない。それがぼくたちの夢のはじまりだったんだからね」
「ルフト、ならなにも恐れることはないわ。いい、よく見ていて。なにも怖くないの」
そういうと、シレーヌは両手で抱えていた金の短剣を持ちかえた。
「待ってくれ、なにをしようとしているんだ」
「怖くないの。ルフト、怖れてはだめ」
彼女は、満面の微笑みを溢れさせながら、我とわが胸に短剣を突き刺した。
「シレーヌ!」
とたんに空中に浮かんだ、人間とも人魚ともつかない輪郭がぼやけ、少しずつ光に包まれて消えていく。
「ルフト、光って不思議ね。孤独な夢見る散歩者みたいね。ほかの粒子と必要以上に関わりをもたない偏屈者。光同士でさえそっけない。でも、光は素晴らしいわ。みんなに夢や現実やいろいろなものを見せるんだって旅をしている。決して歩みを緩めることも止まることもない。きっとそのことに喜びを感じているのね。素敵ね、わたし光になってみたいわ。――だから、宇宙船の名前は《リヒト・スヴィエート》がいいと思うの。わたしたちの夢にもぴったりじゃない? ――そう、どちらも光なんだけど、呼び名が違うだけなのよ。でも、光は光よ! なにも変わらないわ。ルフト、怖れないで」
「シレーヌ、待ってくれ、行かないでくれ! まだ話したいことが――」
ルフトは飛びださんほどの勢いで窓辺へと駆け寄った。
転落しそうになり、慌てて力いっぱいに窓枠を掴んだ。
「あの船の名前の由来は僕らしか知らないはずだ。――あれは、本当のシレーヌ……」
部屋の中から、コヘンルーダの香りが夜空へと漂っていく。
芳香は目に見えるように、円を描いたようだった。ルフトにはそれがウロボロスのように思えた。
「そういえば、しばらく身につけていなかったけど……」
彼は、本棚の脇にある小さなチェストの抽斗を開いて、二匹の蛇が絡みあいながら互いの尾を咥えているペンダントを手にとった。
夜空では夏の大三角形が休むことなく、ちかちかと光を放っていた。




