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Nichts――無  作者: イプシロン
Ⅰ シレーヌ
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#11 カルマール――違和感

 不規則で不安定な足音が通路に反響していた。

 それは、リハビリを開始したシレーヌが、一日に何度か中央制御室と自室を行き来する靴音だった。

「今日は頑張りすぎかもね、これが三回目だもの。さすがに堪えるわ。でも部屋までもう少し。さあ、歩かなきゃ」

 一歩、また一歩と踏み出される音こそ捉えていなかったが、ネライダは彼女の生体信号を感知して、無言で見守っていた。

「そうだ、わたし自分のことばかりで、計画と船のことはすっかり任せっきりね。――ちょっと休憩がてら、ネライダと話さなきゃ」

 彼女は左手首を口元に近づけた。だが、そこにリストコムはなかった。

「いけない。治療中に外されてたんだっけ。……確か、カルマールに頼んでわたしの部屋に置いてこさせたはずね。――でも変ね。そうだとしても、日焼けしてない跡があるはずなのに……。宇宙線焼けするにしたって、ちょっと急すぎない?」

 シレーヌは何かがおかしいと直感したように足取りを早め、近くにある緊急用船内(エマージェンシー)通話器(・ライン)のパネルを開いて、受話器を取り上げた。

「ネライダ、聞こえる」

「はい、船長。どうされました?」

「いま、日課のリハビリ中なんだけど、なにかおかしいみたいなの」

「といいますと?」

 ネライダの声に緊迫感はなかった。

「船内に一定程度の宇宙線が入ることで、宇宙焼けするのは知ってるわよね? でも、その程度が強すぎる気がするの」

「宇宙線のレベルは出航以来、一定に維持できていますが。――となると、船長の身体的な反応と思われますが、心当たりはありますか?」

「ないわ。それにわたしの生体情報をくまなく知ってるあなたのほうが、そのへんは詳しいんじゃない?」

「今一度、総合的にチェックをしてみますが、船長、いまどこに居ますか?」

「自室のすぐそばの船内通話器のところよ、番号は"SC-04"よ」

 シレーヌからすると、乗船してから一度も外したことのなかったリストコム。その装着部分には、宇宙焼けしていない白い肌があるはずだった。

「ネライダ、Θ係数、火災後の残留熱、有毒大気の状態、宇宙線レベル、それからドロイド工場の復旧率を今すぐ教えて」

「Θ係数は±0.8付近で安定しています。残留熱の25%は赤外線放射されました。有毒大気の15%は排出ないし中和に成功しています。毒物の化学組成の判明率は35%。宇宙線レベルは規定範囲内です。ドロイド工場ならびに化学プラントの復旧率は2%です」

「でも、何かがおかしいのよ」

「しかし、船内データにも船長の検査結果にも異常は見あたらないのです」

「いいえ、何かがおかしいわ……」

 そのとき、通路の奥から一体のドロイドが近寄ってくるのが見えた。

 見慣れているはずの動きとどこかが違う。

「カルマール、なんでここに? あなたは点検中のはずでは?」

 ドロイドは彼女の声に反応せず近づいて来る。

「ネライダ、カルマールの様子がおかしいわ。彼のカメラ映像は見えて?」

「駄目です、見えません。それに、こちらからの指示を受けつけません」

「なんですって!」

「オマエハダレダ・コレヨリナイブヲ・テンケンスル。オマエハダレダ……」

「冗談じゃないわ!」

「船長、逃げてください! いまそちらに保安ドロイドを差し向けます。とにかく自室に逃げ込んでドアをロックしてください」

「やめて、カルマール! 痛いわ、離して!」

「船長!」

 シレーヌが渾身の力を振り絞って、掴まれた腕を引き剥がしたとき、受話器から伸びていたコードが千切れた。だが、彼女はそれには構わず自室めがけて走った。

「ドコヘユク・テンケンハ・ギムダ・ニゲルナ! オマエハダレダ……」

 かつての正常さを失ったカルマールは、機械音声を発しながら追いかけてくる。

 船長室へ向かう通路に分かれ道はなかった。シレーヌはそのことに気づき恐怖した。

 もつれそうになる足を無理やり動かし、死に物狂いで走った。

 自室に滑りこむなり、ドアの開閉ボタンを叩き、すぐにロックをかける。

 鋼鉄のアームが何度も殴りつける音と振動のたびに、ドアが変形してゆく。

 金属と金属が激突する音。保安ドロイドとカルマールが格闘しているのだろう。

 シレーヌはその音に怯えながら、リストコムを探しだして装着し、息を切らしながら叫んだ。

「ネライダ! とりあえず逃げ切れたわ。そっちはどう?」

「保安ドロイドが対処中です。WS-135の暴れ方からして、彼は破壊されるでしょう」

「なんで、どうして、あんなに親切だったのに、なんでよ!」

「いま、WS-135の機能停止を確認しました。これから露国区画に運ばせます。本来ならドロイド工場に運んで解体や検査を行うべきですが、あそこはいまだ隔壁を開けることはできませんので」

「宇宙に捨てるってこと?」

「それしかありません。しかし問題なのは、WS-135が暴走した原因です。もしもほかのドロイド、特に保安ドロイドに同じことが起これば――」

「とにかく、至急原因を探ってちょうだい。これじゃ船内を歩くことさえできないわ」

「大至急すべてのデータを厳重にチェックします。船長はわたしから連絡があるまで、そこを離れないでください」

「でも、それほど時間はないわよ」

 シレーヌは歪んで変形したドアを見つめてそういった。

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