第42話 その名で呼ぶことを許す
アストレア公爵邸の応接室。
静かな時間が流れている。
セリアは紅茶を手に取り、穏やかに口をつける。
その向かいに座る少女。
人の形をした神竜。
その存在だけが、この場の均衡をわずかに歪めている。
「……名を問わぬのか」
神竜が言う。
静かな声。
だが、重い。
「はい?」
セリアが首を傾げる。
「お名前ですの?」
「……そうだ」
「必要でしたら、お呼びいたしますわ」
軽い答え。
だが。
それで十分だった。
「……」
神竜がわずかに沈黙する。
通常であれば。
名は与えられるものではない。
奪うものでもない。
理解されるものでもない。
ただ、在るもの。
「……ならば」
一拍。
「許す」
空気が変わる。
わずかに。
確実に。
「我が名を」
言葉が形を持つ。
音ではない。
概念。
定義。
そのまま、場に置かれる。
「――エル・セラフィア」
その瞬間。
空気が静止する。
時間が、わずかに遅れる。
誰もが理解する。
これは“名前”ではない。
“神の定義”だ。
「……」
リリィが言葉を失う。
ノエルの思考が止まる。
カイルは目を閉じる。
レオネルは何も言わない。
処理が追いつかない。
「まあ」
セリアだけが、いつも通りだった。
「素敵なお名前ですわ」
それだけだった。
評価として。
十分すぎる。
「……」
神竜――エル・セラフィアが沈黙する。
初めて。
わずかに。
認識が揺れる。
「……軽いな」
小さく呟く。
「そうですの?」
「重みを感じぬのか」
「はい」
即答だった。
「呼びやすい方がよろしいですもの」
その一言で。
意味が変わる。
神の名が。
日常へと落ちる。
「……」
エル・セラフィアが視線を下げる。
理解する。
これは侮辱ではない。
否定でもない。
ただの再定義。
「……セリア」
名を呼ぶ。
確認するように。
「はい」
「その名で呼べ」
短い許可。
完全な受容。
「エル・セラフィア」
セリアが自然に呼ぶ。
何の迷いもなく。
その瞬間。
空間が安定する。
完全に。
定義が確定する。
「……」
カイルが小さく呟く。
「……やったな」
「はい」
ノエルが即答する。
「完全に固定されました」
「……何がだ」
リリィが小さく聞く。
「関係性です」
一拍。
「対等の」
「……」
誰も否定しない。
できない。
「では」
セリアが微笑む。
「エル・セラフィア、こちらのお菓子もいかがかしら」
神の名を。
紅茶の流れで使う。
完全な日常。
「……問題ない」
エル・セラフィアが応じる。
それで成立する。
神と人の距離が。
消える。
「……なあ」
カイルが小さく言う。
「何だ」
「もう戻れないな」
「……ああ」
レオネルが頷く。
「完全に」
名前が付いた。
それは。
終わりではない。
始まりだ。
世界が。
その名を認識する瞬間の。




