第35話 お名前があった方が呼びやすいですわ
アストレア公爵邸の庭園。
穏やかな午後の光が差し込んでいる。
ただし、その中央には古竜がいる。
規模以外は、いつも通りの光景だった。
「少し、気になっておりましたの」
セリアが古竜を見上げながら言う。
「何だ」
低い声が返る。
「お名前がございませんと、少し不便ですわ」
沈黙。
「……必要か」
「はい」
迷いなく頷く。
「お呼びする際に困りますもの」
それだけだった。
「……好きにしろ」
短い返答。
拒否はない。
興味もない。
だが、受け入れている。
「まあ」
セリアが嬉しそうに微笑む。
「では、少し考えさせてくださいませ」
その場に座る。
考える。
本気で考える。
「……」
リリィが少し離れた場所で見ている。
「……何をしているのですかね」
「命名だ」
カイルが即答する。
「……対象が古竜ですけど」
「問題はそこじゃない」
「ではどこですか」
「真剣にやってることだ」
それが一番おかしい。
「……」
ノエルも無言で見ている。
止める理由がない。
止めても無意味だと分かっている。
「……なあ」
レオネルが小さく言う。
「何だ」
「名前を付けると、どうなる」
「知らん」
カイルが即答する。
「だが」
一拍。
「変わるのは周囲の認識だ」
「……ああ」
レオネルが頷く。
それは理解できる。
「個体になるな」
「そうだ」
ただの古竜ではなくなる。
“名前を持つ存在”になる。
「……」
リリィが少し遠くを見る。
「それ、危なくないですか?」
「もう手遅れだ」
カイルが言う。
完全に。
「……決まりましたわ」
セリアが顔を上げる。
全員の視線が集まる。
「何だ」
古竜が低く問う。
「セレスとお呼びしてもよろしいかしら」
沈黙。
わずかな間。
「……理由は」
「響きが綺麗ですもの」
それだけだった。
理屈ではない。
感覚。
「……」
古竜は何も言わない。
拒否も、肯定もない。
「セレス」
セリアがもう一度呼ぶ。
その瞬間。
空気が、わずかに変わる。
変化は小さい。
だが、確実だった。
「……好きに呼べ」
それが答えだった。
「ありがとうございます、セレス」
セリアが微笑む。
それで終わる。
ただ、それだけ。
「……」
レオネルが目を細める。
「変わったな」
「何がだ」
カイルが聞く。
「位置づけだ」
一拍。
「災害ではなくなった」
「……ああ」
カイルが頷く。
「個体になった」
「……それって」
リリィが不安そうに言う。
「もっと危なくないですか?」
「逆だ」
カイルが首を振る。
「扱いやすくなった」
「……そうですか?」
「少なくとも」
一拍。
「呼べば来る」
「……」
リリィが黙る。
それがどれほど異常か、理解している。
「セレス」
セリアが楽しそうに呼ぶ。
古竜がわずかに反応する。
それだけで、成立している。
「少しお散歩いたしましょうか」
自然な提案。
完全に日常の延長。
「……構わん」
古竜が応じる。
「……」
全員が黙る。
誰も止めない。
止める理由が存在しない。
「参りましょう」
セリアが歩き出す。
古竜が動く。
庭が揺れる。
だが。
それはもう、異常ではなかった。
名前が付いたからだ。
「……なあ」
カイルが小さく言う。
「何だ」
「もう戻れないな」
「……ああ」
レオネルが頷く。
「完全に」
その時、セリアが振り返る。
「どうかなさいました?」
「何でもない」
レオネルが答える。
「そうですの?」
「何でもない」
繰り返す。
「まあ」
セリアは微笑む。
「でしたら、よろしいですわ」
それで終わる。
すべてが。
あまりにも自然に。




