聖女
王都に、聖女が現れた。
その知らせは、数日のうちに貴族たちの間を駆け巡った。
平民の生まれでありながら、類まれな光魔法の力を持つ少女。
その力は、これまで王宮の魔術師たちが見たこともないほど強いという。
王家に招かれた彼女は、聖女として正式に認められることになったらしい。
茶会の会場でも、その話題で持ちきりだった。
「本当に平民の方なのですって」
「それなのに、あれほど強い魔法を使えるなんて」
「陛下も大変お喜びだとか」
令嬢たちの声が、あちらこちらから聞こえてくる。
リリアーナは手元の紅茶に視線を落としていた。
聖女。
その言葉は、彼女にとって遠い世界のものだった。
誰かを救う力を持ち、人々から祝福される存在。
自分とは正反対だ。
自分の周囲では、不幸が起きる。
だから、人を遠ざける。
けれど、聖女は人々のそばにいることを求められるのだろう。
誰かに近づくことを恐れず、誰かのために手を伸ばせる。
そんな人が本当にいるのなら、少しだけ会ってみたい気もした。
けれど、その考えはすぐに打ち消した。
自分が誰かに興味を持つことに、何の意味があるのだろう。
どうせ、近づくことなどできないのに。
「リリアーナ様」
不意に名を呼ばれ、リリアーナは顔を上げた。
すぐそばに、見知らぬ少女が立っていた。
明るい色の髪に、柔らかな表情。
華美な装飾は身につけていない。貴族令嬢たちの華やかなドレスとは違い、落ち着いた装いだった。
けれど、その姿には不思議と目を引くものがあった。
少女は、リリアーナを見ると、にこりと笑った。
「初めまして。エミリアと申します」
その名前を聞いた瞬間、リリアーナは目を見開いた。
聖女。
今、王都で話題になっている少女。
彼女が、目の前にいる。
「……聖女様、ですか」
「はい。まだ慣れないことばかりですけれど」
エミリアは少し照れたように笑った。
「皆さん、私のことをすごい人みたいにお話しされるんです。でも、私自身は今までと何も変わっていないんですよ」
その言葉に、リリアーナは返事をしなかった。
エミリアは、そんな彼女の様子を気にした様子もなく続けた。
「リリアーナ様のお話も、少しだけ聞いています」
その一言に、胸の奥が冷えた。
聞いている。
何を。
決まっている。
自分の噂だ。
不幸を呼ぶ令嬢。
近づいてはいけない令嬢。
聖女ならば、そうした噂も耳にしているだろう。
「そうですか」
リリアーナは、できるだけ平坦な声で答えた。
「何かご用でしょうか」
エミリアは一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐに笑顔に戻る。
「いえ、ご挨拶をしたくて。これから王宮でお会いすることもあるでしょうし」
「そうですか」
「はい。よろしければ、今度ゆっくりお話しできたら嬉しいです」
リリアーナの指先が、カップの取っ手を強く握った。
この少女は、何も知らないのだろうか。
それとも、知っていて近づいてきたのだろうか。
どちらにしても、よくない。
エミリアは聖女だ。
多くの人に必要とされている。
もし彼女まで不幸にしてしまったら。
その力を失わせてしまったら。
人々を救うはずの少女を、自分のせいで傷つけてしまったら。
そんなことになれば、取り返しがつかない。
「申し訳ありませんが、私はあまり人と親しくするつもりはありませんの」
リリアーナは立ち上がった。
できるだけ冷たく聞こえるように、声を整える。
「お話しすることも、特にございません」
エミリアの笑顔が、ほんの少しだけ揺れた。
その変化を見て、胸が痛んだ。
けれど、リリアーナは目をそらした。
「失礼いたします」
それ以上何も言わず、彼女はその場を離れた。
背中に視線を感じる。
エミリアがどんな顔をしているのか、振り返らなくても想像できてしまった。
きっと、困っている。
どうして急に拒絶されたのか、わからないのだろう。
悪いことをした。
そう思った。
けれど、謝るわけにはいかなかった。
謝れば、また話しかけてくれるかもしれない。
そうなれば、今度こそ距離を置けなくなるかもしれない。
リリアーナは人の少ない回廊まで歩き、壁に手をついた。
胸が苦しい。
自分から拒絶したのに、相手の傷ついた顔を想像するだけで、こんなにも苦しくなる。
それでも、これでいい。
エミリアは聖女だ。
誰かを救う力を持っている。
自分とは違う。
だからこそ、近づいてはいけない。
リリアーナは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
そのときだった。
先ほどの光景が、ふいによみがえった。
挨拶を交わすために、エミリアが手を差し出したこと。
そして、ほんの一瞬だけ、彼女の指先がリリアーナの手に触れたこと。
あの瞬間。
何か、奇妙な感覚があった。
温かいような、けれど、どこか遠くへ引かれるような。
うまく説明できない感覚だった。
リリアーナは自分の手を見つめた。
何も変わっていない。
痛みもない。
身体に異常があるわけでもない。
気のせいだったのだろう。
そう考えようとした。
けれど、どうしても引っかかるものがあった。
今まで誰かに触れられるとき、リリアーナはいつも緊張していた。
自分が何かを望んでしまわないように。
幸福を感じてしまわないように。
相手を傷つけるきっかけを、自分から作ってしまわないように。
けれど、エミリアに触れられたときは、それとは違う感覚があった。
それが何なのかはわからない。
考えたところで、答えが出るとも思えなかった。
「……気のせいよ」
リリアーナは自分に言い聞かせた。
聖女だからといって、何もかもが特別なわけではない。
ただ偶然、妙な感覚があっただけ。
そうでなければ困る。
エミリアが自分にとって特別な存在になってしまったら、今度こそ離れられなくなる。
リリアーナは手を握りしめ、回廊の窓から外を眺めた。
遠くの庭では、令嬢たちが楽しそうに話している。
その中に、自分が入ることはない。
そして、聖女とも。
誰とも、深く関わってはいけない。
そう決めたはずだった。
なのに。
エミリアの笑顔が、頭から離れなかった。




