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近づかないで

 聖女エミリアと顔を合わせてから、数日が過ぎた。

 リリアーナは、あの日のことを考えないようにしていた。

 あのとき感じた奇妙な感覚も。

 エミリアが見せた、少しだけ困ったような表情も。

 思い出したところで、何も変わらない。

 自分から距離を取ったのだから、もう関わることもないはずだ。

 そう考えていた。

 少なくとも、リリアーナはそう信じたかった。

 けれど、王宮で開かれた小さな集まりで、その考えはあっさりと崩れた。


「リリアーナ様」


 聞き覚えのある声に、リリアーナの肩がわずかに強張った。

 振り返る。

 そこには、エミリアが立っていた。

 柔らかな笑みを浮かべ、まるで何事もなかったかのようにこちらを見ている。

 どうして。

 リリアーナは思わず周囲を見回した。

 近くにいる令嬢たちが、こちらの様子を窺っている。

 その視線の意味は、考えなくてもわかった。

 聖女が、わざわざ自分に話しかけている。

 その事実だけで、周囲は興味を持つのだろう。


「……何かご用でしょうか」


 リリアーナは、できるだけ感情を込めずに答えた。


「この前は、あまりお話しできませんでしたから。もう一度、ご挨拶をと思いまして」


「ご挨拶なら、先日済ませたはずですわ」


「そうですね。でも、私はもう少しお話ししてみたいと思ったんです」


 エミリアは臆する様子もなく言った。

 その言葉に、リリアーナは息を詰めた。

 もう少し話したい。

 そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。

 思い出せない。

 いや、本当は思い出せる。

 幼い頃は、誰かと一緒にいたいと思っていた。

 アレクシスと遊ぶのが好きだった。

 父と過ごす時間が嬉しかった。

 誰かが自分に笑いかけてくれることを、当たり前のように喜んでいた。

 けれど、今は違う。

 誰かが近づいてくるたび、最初に浮かぶのは恐怖だった。

 この人を不幸にしてしまうかもしれない。

 この人の幸せを壊してしまうかもしれない。

 だから、近づいてはいけない。


「私には、あなたとお話しする理由がありません」


 リリアーナは、わざと冷たい声を出した。

 エミリアの表情から、笑みが少しだけ消えた。

 それでも彼女は、すぐには立ち去らなかった。


「私、何か失礼なことをしましたか?」


「いいえ」


「それなら、どうして……」


「聖女様は、お忙しいのでしょう?」


 リリアーナは言葉を重ねた。


「私などに構っている時間があるのなら、もっとほかの方々と親しくなればよろしいのではありませんか」


 言い終えた瞬間、胸が痛んだ。

 自分でも、ひどい言い方だと思った。

 エミリアは、ただ話しかけてくれただけなのに。

 それなのに、まるで迷惑だと言うように突き放してしまった。

 けれど、そうするしかなかった。

 優しくされたら、嬉しくなってしまう。

 嬉しくなれば、もっと話したいと思ってしまう。

 もっと一緒にいたいと願ってしまう。

 その先に何が待っているのか、リリアーナは知っているつもりだった。

 だから、今ここで終わらせなければならない。


「……わかりました」


 エミリアは、静かに答えた。

 声に怒りはなかった。

 けれど、先ほどまでの明るさも消えていた。


「お忙しいところ、すみませんでした」


 彼女が頭を下げる。

 その仕草を見た瞬間、リリアーナは思わず手を伸ばしそうになった。

 謝らないで。

 あなたは何も悪くない。

 そう言いたかった。

 けれど、口から出たのは、別の言葉だった。


「今後は、お声をかけていただかなくて結構ですわ」


 エミリアが顔を上げた。

 その瞳に、傷ついた色が浮かんでいる。

 リリアーナは、それ以上見ていられなかった。

 視線をそらし、背を向ける。

 その場を離れようとしたとき、周囲の令嬢たちの囁きが耳に届いた。


「聖女様にまで、あんな態度を……」


「やっぱり、噂は本当なのかしら」


「せっかく聖女様が歩み寄ってくださったのに」


 聞き慣れた言葉だった。

 いつもなら、何も感じないふりができた。

 嫌われることには慣れている。

 冷たい令嬢だと思われることにも。

 けれど、今だけは違った。

 自分が拒絶した相手が、すぐそばにいる。

 自分の言葉で傷ついた人がいる。

 それが、たまらなく苦しかった。


 リリアーナは足早に廊下を進んだ。

 誰もいない場所まで来て、ようやく足を止める。

 胸の奥が痛い。

 息を吸っても、苦しさが消えない。

 どうして、こんなにも苦しいのだろう。

 自分で選んだことなのに。

 自分から離れれば、エミリアは傷つかずに済むはずだった。

 自分が嫌な人間になれば、もう近づいてこなくなるはずだった。

 なのに、傷つけたことが苦しくて仕方がない。


「……これでいいのよ」


 リリアーナは小さく呟いた。

 誰かに聞かせるためではない。

 自分自身に言い聞かせるための言葉だった。

 これでいい。

 これ以上、エミリアが自分に近づくことはない。

 彼女は聖女だ。

 これから多くの人を救い、たくさんの人に必要とされる。

 自分のような人間と関わる必要はない。

 そう思えば、少しは気持ちが落ち着くはずだった。

 けれど、どうしても、頭から離れない。

 エミリアが最後に見せた表情。

 傷ついていた。

 悲しそうだった。

 それでも、怒ってはいなかった。

 なぜだろう。

 どうして、あの人は怒らなかったのだろう。

 自分なら、きっと腹を立てる。

 何もしていないのに冷たくされれば、嫌な気持ちになるはずだ。

 それなのに、エミリアはただ悲しそうにしていただけだった。

 まるで、何かを知りたがっているように。


 リリアーナは首を横に振った。

 考えてはいけない。

 エミリアのことを考えれば、また会いたいと思ってしまう。

 もう一度話せば、今度こそ優しくしたいと思ってしまう。

 そんなことを望んではいけない。

 誰かと親しくなりたいという願いを、抱いてはいけない。


 リリアーナは窓の外へ目を向けた。

 庭には、午後の光が降り注いでいた。

 あの日、アレクシスと過ごした庭を思い出す。

 楽しかった。

 嬉しかった。

 もっと一緒にいたいと思った。

 そして、そのあとに起きたことを、今も忘れられない。

 だからこそ、もう二度と同じことを繰り返したくなかった。

 アレクシスも。

 父も。

 そして、エミリアも。

 誰一人として、不幸にしたくない。

 たとえ、そのために自分が嫌われることになったとしても。

 たとえ、自分が一人きりになったとしても。

 それで誰かが無事でいられるのなら、それでいい。


 リリアーナは目を閉じた。

 胸の奥に残った痛みを、無理やり押し込める。

 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……どうか、私に近づかないで」


 その言葉は、エミリアに向けたものだった。

 けれど本当は、自分自身に向けた願いでもあった。

 これ以上、誰かを大切に思わないように。

 これ以上、幸せを望まないように。

 誰かと一緒にいたいと願ってしまわないように。

 リリアーナは、再び歩き出した。

 背筋を伸ばし、表情を整え、誰から見ても冷たい公爵令嬢として。

 そうしていれば、きっと誰も近づいてこない。

 誰も、自分のせいで傷つくことはない。

 そう信じることだけが、今のリリアーナにできることだった。


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