聖女は気にしない
翌朝、リリアーナはいつもより早く王宮に到着した。
今日の予定は、王妃主催の茶会への出席だった。
本来ならば、茶会など欠席したい。けれど、公爵令嬢であり王太子の婚約者でもある以上、そう簡単に断ることはできなかった。
それに、ここ数日は母の残した古書を読むことに夢中になっていた。部屋にこもってばかりでは、侍女たちに余計な心配をかけてしまう。
しかし、あの本に書かれていた内容を考え続けていると、頭が休まらなかった。
幸福を魔力に変換する。
対価。
移動。
分配。
断片的な言葉ばかりで、肝心な部分は何もわからない。
母は、いったい何を研究していたのだろう。
そして、自分の身に起きていることと、あの研究には関係があるのだろうか。
考え始めれば、いくらでも疑問が浮かんでくる。
リリアーナは小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。
今は、余計なことを考えるのをやめよう。
そう決めたところで、侍女が控えめに声をかけてきた。
「お嬢様、本日の茶会には聖女様もいらっしゃるそうです」
リリアーナの指先が止まった。
「……そう」
「王妃殿下が、聖女様を皆様に紹介なさるとのことです」
「わかったわ」
それ以上、何も尋ねなかった。
エミリアが来る。
ただ、それだけのことだ。
彼女が来たところで、自分には関係がない。
先日、あれほどはっきりと拒絶したのだから、もう話しかけてくることもないだろう。
そうであってほしい。
そうでなければ、困る。
リリアーナは窓から目をそらした。
*
茶会の会場には、すでに多くの令嬢たちが集まっていた。
色とりどりのドレス。磨き上げられた銀の食器。窓辺に飾られた季節の花。
穏やかな音楽が流れ、あちこちから楽しげな声が聞こえてくる。
その中心に、エミリアがいた。
周囲の令嬢たちに囲まれ、少し戸惑いながらも、ひとりひとりの話に耳を傾けている。
聖女として注目されるのは、彼女にとっても初めての経験なのだろう。
それでも、エミリアは誰かを特別扱いすることなく、自然に笑っていた。
その姿を見て、リリアーナは胸の奥に小さな痛みを覚えた。
あの笑顔を、自分にも向けてくれた。
ほんの短い時間だったけれど、確かにそうだった。
けれど、自分はそれを拒絶した。
「リリアーナ様?」
近くにいた令嬢が、不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。何でもありませんわ」
リリアーナは微笑み、手元の紅茶に視線を落とした。
考えてはいけない。
エミリアは聖女で、自分とは違う世界にいる人だ。
そう言い聞かせていると、会場の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「リリアーナ様!」
まさかと思い、顔を上げる。
エミリアがこちらへ歩いてきていた。
リリアーナは思わず周囲を見た。
近くの令嬢たちが、何事かとこちらを窺っている。
やめてほしい。
どうして、わざわざ自分のところへ来るのだろう。
「ごきげんよう、聖女様」
リリアーナは立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。
「先日は失礼いたしました。私、少し緊張してしまって」
エミリアはそう言って、困ったように笑った。
リリアーナは返事に迷った。
緊張していたのは、こちらの方だ。
けれど、そう説明するわけにはいかない。
「そうでしたの」
「はい。それで、今日はもう少しお話しできたらと思って」
「……先日も申し上げたはずですわ。私は、あまり人と親しくするつもりはありません」
言葉にすると、胸が痛んだ。
それでも、リリアーナは表情を崩さなかった。
エミリアは少しだけ目を伏せた。
また、傷つけてしまった。
そう思った瞬間、彼女は顔を上げた。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「リリアーナ様は、私のことがお嫌いなのですか?」
周囲の声が、遠のいた気がした。
リリアーナは答えられなかった。
嫌いなのかと聞かれれば、違う。
むしろ、嫌いになる理由などなかった。
エミリアは親切で、まっすぐで、少し不思議な人だ。
自分とは正反対なのに、なぜか目が離せない。
けれど、そんなことを口にするわけにはいかなかった。
「……そのようなことを、突然お聞きになるのですね」
「すみません。でも、気になってしまって」
エミリアはまっすぐにリリアーナを見つめた。
「私、リリアーナ様に何か失礼なことをしたのなら、謝りたいんです。知らないうちに傷つけてしまったのなら、理由を知りたいですし」
「あなたは、何もしていませんわ」
「それなら、どうしてでしょう?」
答えられない。
リリアーナは唇を結んだ。
どうして。
そんなこと、自分がいちばん知りたい。
あなたが悪いわけではない。
私が、あなたを傷つけたくないだけ。
自分が幸せになることで、誰かを不幸にしてしまうかもしれないから。
だから、誰にも近づいてほしくない。
けれど、そんな説明をしたところで、信じてもらえるはずがなかった。
「……人には、それぞれ事情がありますの」
ようやく出てきた言葉は、ひどく曖昧だった。
「ですから、これ以上はお尋ねにならないでくださいませ」
エミリアは黙った。
リリアーナは、彼女が怒るのを待った。
これだけ言えば、さすがにもう話しかけてこないだろう。
そう思った。
ところが。
「わかりました」
エミリアは、あっさりと頷いた。
リリアーナは拍子抜けした。
「……え?」
「今は、これ以上聞かないでおきます」
今は。
その言葉に、嫌な予感がした。
「ただ、ひとつだけお願いしてもいいですか?」
「何でしょう」
「いつか、話してもいいと思える日が来たら、そのときは教えてください」
エミリアは、先ほどよりも少しだけ柔らかく笑った。
「私、リリアーナ様と仲良くなりたいんです」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
どうして、そんなことを言うのだろう。
どうして、自分などと仲良くなりたいと思うのだろう。
自分には、何もない。
人を不幸にするかもしれないという恐怖を抱えて、誰とも親しくなれずにいるだけだ。
それなのに。
「……物好きな方ですわね」
リリアーナは、精一杯冷たい声で答えた。
「よく言われます」
エミリアは、少しも気にした様子がなかった。
「でも、気になるものは仕方がありませんから」
「何が気になるというのですか」
「それは……」
エミリアは考え込むように、首を傾げた。
「まだ、うまく説明できません」
リリアーナは眉をひそめた。
「説明もできないのに、近づいていらっしゃるの?」
「はい」
あまりにも迷いのない返事だった。
思わず、言葉を失う。
普通なら、ここまで拒絶されれば離れていくはずだ。
怒るか、呆れるか、あるいは二度と関わらないと決めるか。
少なくとも、リリアーナならそうする。
けれど、エミリアは違った。
傷ついていないわけではないだろう。
先ほどの表情を見れば、それくらいはわかる。
それでも、彼女は自分から離れようとしなかった。
「……理解できませんわ」
「私も、自分でもよくわかっていないんです」
エミリアは困ったように笑った。
「でも、理由もわからないまま誰かを避け続けるのって、少し寂しくありませんか?」
リリアーナの心臓が、どくりと鳴った。
寂しい。
その言葉を、まるで自分のことのように言われた気がした。
違う。
寂しいなどと思ってはいけない。
自分で選んだことなのだから。
「私は、寂しくなどありません」
「そうですか」
エミリアは否定しなかった。
ただ、少しだけ首を傾げた。
「でも、もし寂しくなったら、私に話しかけてくださいね」
「……聖女様」
「はい?」
「どうして、そこまで……」
言いかけて、リリアーナは口を閉じた。
聞いてはいけない。
聞いてしまえば、答えを求めてしまう。
エミリアは少し考えたあと、穏やかに答えた。
「理由がないと、誰かに優しくしてはいけませんか?」
リリアーナは、何も言えなかった。
理由がなければ、近づいてはいけない。
誰かを大切に思えば、その人を不幸にしてしまうかもしれない。
だから、最初から関わらない方がいい。
ずっと、そう考えてきた。
けれど、エミリアは違う。
仲良くなりたいから、近づく。
気になるから、話しかける。
ただ、それだけなのだ。
それがどれほど恐ろしいことか、彼女は知らない。
リリアーナは視線を落とした。
「……お好きになさってください」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
「ありがとうございます」
なぜ、お礼を言われたのだろう。
リリアーナは困惑した。
自分は何も許したつもりはない。
ただ、これ以上拒絶する言葉が見つからなかっただけだ。
それなのに、エミリアは嬉しそうだった。
「では、またお話ししましょうね」
そう言って、彼女は別の令嬢たちの方へ歩いていった。
残されたリリアーナは、しばらくその場を動けなかった。
会話は終わった。
エミリアは去っていった。
それなのに、胸の中はひどく落ち着かなかった。
嫌われているなら、嫌われている理由くらい知りたい。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
もし、自分の事情を話したら。
もし、本当に自分が誰かを不幸にしているのだと伝えたら。
エミリアは、どんな顔をするだろう。
きっと、信じない。
あるいは、恐れる。
そうなれば、今度こそ彼女は離れていくだろう。
それでいいはずだった。
それなのに、リリアーナは考えてしまった。
もし、信じてくれたら。
もし、恐れずにいてくれたら。
そんなことを考えた自分に気づき、リリアーナは慌てて目を閉じた。
期待してはいけない。
誰かに理解してもらいたいなどと、望んではいけない。
そう思うのに、エミリアの言葉は、いつまでも胸の奥に残っていた。
*
茶会が終わる頃、リリアーナはひとりで回廊を歩いていた。
窓の外には、午後の光が降り注いでいる。
会場へ戻るつもりはなかった。
今は、誰とも話したくない。
エミリアの言葉を思い返すたび、胸の奥が揺れてしまうからだ。
そのとき、ふと、回廊の向こうに人影が見えた。
エミリアだった。
彼女は庭の方を見つめ、何かを考えているようだった。
いつもの笑顔はない。
横顔は静かで、少しだけ疲れているようにも見えた。
リリアーナは足を止めた。
やはり、傷ついているのだ。
それでも、あれほどまっすぐに話しかけてくる。
その理由がわからない。
わからないからこそ、気になってしまう。
エミリアがこちらに気づく前に、リリアーナはそっと踵を返した。
これ以上、考えてはいけない。
けれど、歩き出したあとも、心のどこかに小さな疑問が残っていた。
――この人は、本当に怖くないのだろうか。
自分のそばにいることを。
自分に嫌われることを。
それとも、恐れているのに、それでも近づいてくるのだろうか。
その答えを知りたいと思ったことが、リリアーナには何よりも怖かった。




