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11/14

聖女は気にしない

 翌朝、リリアーナはいつもより早く王宮に到着した。

 今日の予定は、王妃主催の茶会への出席だった。

 本来ならば、茶会など欠席したい。けれど、公爵令嬢であり王太子の婚約者でもある以上、そう簡単に断ることはできなかった。

 それに、ここ数日は母の残した古書を読むことに夢中になっていた。部屋にこもってばかりでは、侍女たちに余計な心配をかけてしまう。

 しかし、あの本に書かれていた内容を考え続けていると、頭が休まらなかった。

 幸福を魔力に変換する。

 対価。

 移動。

 分配。

 断片的な言葉ばかりで、肝心な部分は何もわからない。

 母は、いったい何を研究していたのだろう。

 そして、自分の身に起きていることと、あの研究には関係があるのだろうか。

 考え始めれば、いくらでも疑問が浮かんでくる。

 リリアーナは小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。

 今は、余計なことを考えるのをやめよう。

 そう決めたところで、侍女が控えめに声をかけてきた。


「お嬢様、本日の茶会には聖女様もいらっしゃるそうです」


 リリアーナの指先が止まった。


「……そう」


「王妃殿下が、聖女様を皆様に紹介なさるとのことです」


「わかったわ」


 それ以上、何も尋ねなかった。

 エミリアが来る。

 ただ、それだけのことだ。

 彼女が来たところで、自分には関係がない。

 先日、あれほどはっきりと拒絶したのだから、もう話しかけてくることもないだろう。

 そうであってほしい。

 そうでなければ、困る。

 リリアーナは窓から目をそらした。


     *


 茶会の会場には、すでに多くの令嬢たちが集まっていた。

 色とりどりのドレス。磨き上げられた銀の食器。窓辺に飾られた季節の花。

 穏やかな音楽が流れ、あちこちから楽しげな声が聞こえてくる。

 その中心に、エミリアがいた。

 周囲の令嬢たちに囲まれ、少し戸惑いながらも、ひとりひとりの話に耳を傾けている。

 聖女として注目されるのは、彼女にとっても初めての経験なのだろう。

 それでも、エミリアは誰かを特別扱いすることなく、自然に笑っていた。

 その姿を見て、リリアーナは胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 あの笑顔を、自分にも向けてくれた。

 ほんの短い時間だったけれど、確かにそうだった。

 けれど、自分はそれを拒絶した。


「リリアーナ様?」


 近くにいた令嬢が、不思議そうにこちらを見ていた。


「どうかなさいましたか?」


「いいえ。何でもありませんわ」


 リリアーナは微笑み、手元の紅茶に視線を落とした。

 考えてはいけない。

 エミリアは聖女で、自分とは違う世界にいる人だ。

 そう言い聞かせていると、会場の向こうから、聞き覚えのある声がした。


「リリアーナ様!」


 まさかと思い、顔を上げる。

 エミリアがこちらへ歩いてきていた。

 リリアーナは思わず周囲を見た。

 近くの令嬢たちが、何事かとこちらを窺っている。

 やめてほしい。

 どうして、わざわざ自分のところへ来るのだろう。


「ごきげんよう、聖女様」


 リリアーナは立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。


「先日は失礼いたしました。私、少し緊張してしまって」


 エミリアはそう言って、困ったように笑った。

 リリアーナは返事に迷った。

 緊張していたのは、こちらの方だ。

 けれど、そう説明するわけにはいかない。


「そうでしたの」


「はい。それで、今日はもう少しお話しできたらと思って」


「……先日も申し上げたはずですわ。私は、あまり人と親しくするつもりはありません」


 言葉にすると、胸が痛んだ。

 それでも、リリアーナは表情を崩さなかった。

 エミリアは少しだけ目を伏せた。

 また、傷つけてしまった。

 そう思った瞬間、彼女は顔を上げた。


「ひとつ、聞いてもいいですか?」


「何でしょう」


「リリアーナ様は、私のことがお嫌いなのですか?」


 周囲の声が、遠のいた気がした。

 リリアーナは答えられなかった。

 嫌いなのかと聞かれれば、違う。

 むしろ、嫌いになる理由などなかった。

 エミリアは親切で、まっすぐで、少し不思議な人だ。

 自分とは正反対なのに、なぜか目が離せない。

 けれど、そんなことを口にするわけにはいかなかった。


「……そのようなことを、突然お聞きになるのですね」


「すみません。でも、気になってしまって」


 エミリアはまっすぐにリリアーナを見つめた。


「私、リリアーナ様に何か失礼なことをしたのなら、謝りたいんです。知らないうちに傷つけてしまったのなら、理由を知りたいですし」


「あなたは、何もしていませんわ」


「それなら、どうしてでしょう?」


 答えられない。

 リリアーナは唇を結んだ。

 どうして。

 そんなこと、自分がいちばん知りたい。

 あなたが悪いわけではない。

 私が、あなたを傷つけたくないだけ。

 自分が幸せになることで、誰かを不幸にしてしまうかもしれないから。

 だから、誰にも近づいてほしくない。

 けれど、そんな説明をしたところで、信じてもらえるはずがなかった。


「……人には、それぞれ事情がありますの」


 ようやく出てきた言葉は、ひどく曖昧だった。


「ですから、これ以上はお尋ねにならないでくださいませ」


 エミリアは黙った。

 リリアーナは、彼女が怒るのを待った。

 これだけ言えば、さすがにもう話しかけてこないだろう。

 そう思った。

 ところが。


「わかりました」


 エミリアは、あっさりと頷いた。

 リリアーナは拍子抜けした。


「……え?」


「今は、これ以上聞かないでおきます」


 今は。

 その言葉に、嫌な予感がした。


「ただ、ひとつだけお願いしてもいいですか?」


「何でしょう」


「いつか、話してもいいと思える日が来たら、そのときは教えてください」


 エミリアは、先ほどよりも少しだけ柔らかく笑った。


「私、リリアーナ様と仲良くなりたいんです」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 どうして、そんなことを言うのだろう。

 どうして、自分などと仲良くなりたいと思うのだろう。

 自分には、何もない。

 人を不幸にするかもしれないという恐怖を抱えて、誰とも親しくなれずにいるだけだ。

 それなのに。


「……物好きな方ですわね」


 リリアーナは、精一杯冷たい声で答えた。


「よく言われます」


 エミリアは、少しも気にした様子がなかった。


「でも、気になるものは仕方がありませんから」


「何が気になるというのですか」


「それは……」


 エミリアは考え込むように、首を傾げた。


「まだ、うまく説明できません」


 リリアーナは眉をひそめた。


「説明もできないのに、近づいていらっしゃるの?」


「はい」


 あまりにも迷いのない返事だった。

 思わず、言葉を失う。

 普通なら、ここまで拒絶されれば離れていくはずだ。

 怒るか、呆れるか、あるいは二度と関わらないと決めるか。

 少なくとも、リリアーナならそうする。

 けれど、エミリアは違った。

 傷ついていないわけではないだろう。

 先ほどの表情を見れば、それくらいはわかる。

 それでも、彼女は自分から離れようとしなかった。


「……理解できませんわ」


「私も、自分でもよくわかっていないんです」


 エミリアは困ったように笑った。


「でも、理由もわからないまま誰かを避け続けるのって、少し寂しくありませんか?」


 リリアーナの心臓が、どくりと鳴った。

 寂しい。

 その言葉を、まるで自分のことのように言われた気がした。

 違う。

 寂しいなどと思ってはいけない。

 自分で選んだことなのだから。


「私は、寂しくなどありません」


「そうですか」


 エミリアは否定しなかった。

 ただ、少しだけ首を傾げた。


「でも、もし寂しくなったら、私に話しかけてくださいね」


「……聖女様」


「はい?」


「どうして、そこまで……」


 言いかけて、リリアーナは口を閉じた。

 聞いてはいけない。

 聞いてしまえば、答えを求めてしまう。

 エミリアは少し考えたあと、穏やかに答えた。


「理由がないと、誰かに優しくしてはいけませんか?」


 リリアーナは、何も言えなかった。

 理由がなければ、近づいてはいけない。

 誰かを大切に思えば、その人を不幸にしてしまうかもしれない。

 だから、最初から関わらない方がいい。

 ずっと、そう考えてきた。

 けれど、エミリアは違う。

 仲良くなりたいから、近づく。

 気になるから、話しかける。

 ただ、それだけなのだ。

 それがどれほど恐ろしいことか、彼女は知らない。

 リリアーナは視線を落とした。


「……お好きになさってください」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。


「ありがとうございます」


 なぜ、お礼を言われたのだろう。

 リリアーナは困惑した。

 自分は何も許したつもりはない。

 ただ、これ以上拒絶する言葉が見つからなかっただけだ。

 それなのに、エミリアは嬉しそうだった。


「では、またお話ししましょうね」


 そう言って、彼女は別の令嬢たちの方へ歩いていった。

 残されたリリアーナは、しばらくその場を動けなかった。

 会話は終わった。

 エミリアは去っていった。

 それなのに、胸の中はひどく落ち着かなかった。


 嫌われているなら、嫌われている理由くらい知りたい。

 その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 もし、自分の事情を話したら。

 もし、本当に自分が誰かを不幸にしているのだと伝えたら。

 エミリアは、どんな顔をするだろう。

 きっと、信じない。

 あるいは、恐れる。

 そうなれば、今度こそ彼女は離れていくだろう。

 それでいいはずだった。

 それなのに、リリアーナは考えてしまった。

 もし、信じてくれたら。

 もし、恐れずにいてくれたら。

 そんなことを考えた自分に気づき、リリアーナは慌てて目を閉じた。

 期待してはいけない。

 誰かに理解してもらいたいなどと、望んではいけない。

 そう思うのに、エミリアの言葉は、いつまでも胸の奥に残っていた。


     *


 茶会が終わる頃、リリアーナはひとりで回廊を歩いていた。

 窓の外には、午後の光が降り注いでいる。

 会場へ戻るつもりはなかった。

 今は、誰とも話したくない。

 エミリアの言葉を思い返すたび、胸の奥が揺れてしまうからだ。

 そのとき、ふと、回廊の向こうに人影が見えた。

 エミリアだった。

 彼女は庭の方を見つめ、何かを考えているようだった。

 いつもの笑顔はない。

 横顔は静かで、少しだけ疲れているようにも見えた。


 リリアーナは足を止めた。

 やはり、傷ついているのだ。

 それでも、あれほどまっすぐに話しかけてくる。

 その理由がわからない。

 わからないからこそ、気になってしまう。

 エミリアがこちらに気づく前に、リリアーナはそっと踵を返した。

 これ以上、考えてはいけない。

 けれど、歩き出したあとも、心のどこかに小さな疑問が残っていた。


 ――この人は、本当に怖くないのだろうか。


 自分のそばにいることを。

 自分に嫌われることを。

 それとも、恐れているのに、それでも近づいてくるのだろうか。

 その答えを知りたいと思ったことが、リリアーナには何よりも怖かった。

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