小さな笑顔
その日、リリアーナは王宮の温室へ向かっていた。
茶会のあと、少しだけ時間が空いていたのだ。
屋敷へ戻るには早く、かといって人の多い広間にいる気にもなれなかった。
温室なら、静かに過ごせるだろう。
そう考えたのは、半分は本当で、もう半分は言い訳だった。
ここ数日、リリアーナは母の古書を読むために夜更かしをしていた。
眠る前に少しだけ、とページを開けば、気づけば夜が更けている。
朝になっても、頭の中では文字がぐるぐると回っていた。
今日は少し休もう。
そう思っていたはずなのに、気がつけば、また考えてしまう。
幸福を魔力へ変換する。
あの術式は、いったい何を意味しているのだろう。
自分の力と関係があるのだろうか。
考え込んでいると、温室の扉の前まで来ていた。
リリアーナは静かに扉を開けた。
温かな空気と、花の香りが頬を撫でる。
外よりも少し湿った空気の中に、色とりどりの花が咲いていた。
ここなら、誰にも邪魔されずに過ごせる。
そう思ったのも束の間だった。
「あっ」
温室の奥から、声がした。
リリアーナの足が止まる。
見覚えのある淡い色の髪が、花壇の向こうに見えた。
エミリアだった。
彼女は小さな鉢植えを前に、しゃがみ込んでいた。
何をしているのだろう。
リリアーナが様子を窺っていると、エミリアが顔を上げた。
「あ、リリアーナ様!」
見つかった。
リリアーナは一瞬、逃げようかと考えた。
けれど、今ここで踵を返すのも不自然だ。
「……ごきげんよう」
「ごきげんよう。リリアーナ様も、お花を見にいらしたんですか?」
「ええ。少し、静かな場所にいたくて」
「そうなんですね。ここ、落ち着きますよね」
エミリアはそう言って、手元の鉢植えに視線を戻した。
会話が途切れた。
リリアーナは、その隙に別の場所へ移ろうとした。
ところが。
「リリアーナ様、少しだけお時間ありますか?」
思わず足を止めた。
「……何でしょう」
「実は、困っているんです」
エミリアは真剣な顔で言った。
その表情に、リリアーナは眉をひそめた。
困っている。
聖女である彼女が。
自分に、何を頼むというのだろう。
「私にできることでしたら」
口にしてから、リリアーナは内心で後悔した。
なぜ、そんなことを言ってしまったのだろう。
距離を置くつもりだったのに。
エミリアはぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます!」
そして、鉢植えを指さした。
「この子、どうしたらいいと思いますか?」
「……花、ですか?」
「はい」
リリアーナは拍子抜けした。
何か重大な相談をされるのかと思ったのに、目の前にあるのは、小さな鉢植えだった。
葉は青々としている。
土も乾ききっているようには見えない。
ただ、花が咲いていなかった。
「この前、お水をあげたんですけど、全然咲かなくて」
エミリアは眉を下げた。
「日当たりもいいところに置いたし、毎日話しかけているんですけど……」
「話しかけて?」
「はい。おはよう、とか、今日も元気だね、とか」
リリアーナは一瞬、言葉を失った。
花に話しかける。
それ自体は、珍しいことではないのかもしれない。
けれど、エミリアは本気で花が返事をしてくれるのを待っているような顔をしていた。
「……花は、言葉を理解しませんわ」
「わかっています」
「それなら、どうして」
「でも、話しかけた方が元気になる気がするんです」
エミリアは鉢植えを見つめた。
「私が誰かに話しかけても、返事をしてくれないことはありますから」
リリアーナは、思わず彼女を見た。
エミリアは、こちらに気づいていないようだった。
「だから、この子も、いつか咲いてくれるかなって」
その言葉に、リリアーナは返事をしなかった。
返事をしなかった相手。
それは、間違いなく自分のことだった。
先日から、エミリアが話しかけてくるたび、冷たく突き放してきた。
それでも、彼女はこうして花に話しかけている。
返事がなくても。
すぐに結果が出なくても。
ただ、いつか応えてくれるかもしれないと思って。
リリアーナは胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
「……まずは、葉の状態を確認なさった方がよろしいのではありませんか」
気づけば、そう口にしていた。
エミリアが顔を上げる。
「葉、ですか?」
「ええ。葉の色や、土の状態を見れば、何が足りないのかわかることもありますわ。水が多すぎても、少なすぎてもよくありませんし」
説明しながら、リリアーナは自分が何をしているのかに気づいた。
花の世話について、助言している。
しかも、エミリアに。
距離を置こうと決めていた相手に。
「なるほど……!」
エミリアは目を輝かせた。
「リリアーナ様、詳しいんですね!」
「詳しいというほどではありません。庭師が話しているのを聞いただけですわ」
「それでも、すごいです。私、植物のことはあまり知らなくて」
エミリアは鉢植えを持ち上げ、真剣に葉を観察し始めた。
その姿は、どこか子どもっぽかった。
聖女として人々に注目され、王宮に招かれた少女。
もっと落ち着いていて、何でも知っている人なのだと思っていた。
けれど、実際は違う。
わからないことがあれば、素直に困る。
知らないことがあれば、教えてほしいと言う。
そして、教えてもらえば、まるで宝物を見つけたように喜ぶ。
リリアーナは、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「……葉は、元気そうですわね」
「はい。元気です」
「それなら、咲く時期ではないのかもしれません」
「そういうこともあるんですか?」
「花には、それぞれ咲く時期がありますから」
「そうなんですね……」
エミリアは、しばらく鉢植えを見つめた。
そして、ふっと笑った。
「私、早く咲いてほしくて、毎日まだかなって思っていたんです」
リリアーナは、黙って耳を傾けた。
「でも、この子にはこの子の時間があるんですね」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
この子には、この子の時間がある。
自分にも、そんな時間があるのだろうか。
誰かと親しくなることを恐れ、幸せになることを避け、何も望まないように生きてきた。
けれど、本当にそれしかないのだろうか。
そんなことを考えてしまい、リリアーナは慌てて視線をそらした。
いけない。
また、余計なことを考えている。
「……私は、そろそろ失礼しますわ」
「あっ、はい。引き止めてしまってすみません」
エミリアは慌てて立ち上がった。
その拍子に、鉢植えの横に置いてあった小さなじょうろに足が当たった。
じょうろが傾き、水が床にこぼれる。
「あっ!」
エミリアは慌てて拾い上げた。
「ご、ごめんなさい! 私、何をしているんでしょう……」
その慌てぶりに、リリアーナは思わず目を瞬いた。
「……大丈夫ですか?」
「はい! じょうろは無事です!」
「じょうろの心配をしているのではありませんわ」
「えっ。あ、そうですよね。床……!」
エミリアは顔を赤くした。
「すみません。私、こういうことが本当に多くて……」
濡れた床をどうにかしようと、近くの布を手に取る。
しかし、慌てているせいか、布を落としかけた。
拾おうとして、今度はじょうろを持ち直し損ねる。
水が、また少しこぼれた。
「……っ」
リリアーナは唇を引き結んだ。
笑ってはいけない。
困っている相手を笑うなど、失礼にもほどがある。
そう思った。
思ったのに。
「ふっ……」
喉の奥から、小さな音が漏れた。
リリアーナは、はっと口元を押さえた。
今、何をしたのだろう。
エミリアが動きを止め、こちらを振り返る。
「……リリアーナ様?」
「な、何でもありませんわ」
「今、笑いました?」
「笑っていません」
「えっ、でも……」
「笑っていませんわ」
リリアーナは顔を背けた。
頬が熱い。
どうして、こんなことになったのだろう。
エミリアは、じょうろを持ったまま、ぽかんとしていた。
そして、次の瞬間。
「……ふふっ」
今度は、エミリアが笑った。
「やっぱり、笑ってくださいましたね」
「だから、笑ってなど……」
「はい。そういうことにしておきます」
エミリアは、いたずらを見つけた子どものように笑っていた。
リリアーナは、もう何も言えなかった。
笑ってしまった。
ほんの一瞬。
声に出たのは、たったそれだけだった。
それなのに、胸の奥が不思議なほど温かかった。
誰かと一緒にいて、気持ちが緩んで。
相手の失敗を、少しだけおかしいと思って。
思わず笑ってしまう。
そんなことをしたのは、いつ以来だろう。
思い出せないほど、遠い昔のことのように感じた。
「……今のことは、忘れてくださいませ」
リリアーナは、できるだけ平静を装って言った。
「どうしてですか?」
「どうしてもです」
「わかりました。忘れませんね」
「忘れてくださいと言ったのですけれど」
「はい。だから、忘れません」
エミリアは悪びれもせずに答えた。
リリアーナは、思わず彼女を見た。
そして、また笑いそうになってしまい、慌てて顔をそらした。
この人は、本当に調子が狂う。
何を言っても、思ったとおりの反応が返ってこない。
冷たくすれば悲しそうにするのに、離れてはいかない。
少しだけ優しくすれば、驚くほど喜ぶ。
そして、こちらが困っていると、まるで自分まで困ったような顔をする。
不思議な人だ。
けれど。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけなら、一緒にいてもいいのかもしれない。
そう思った瞬間、リリアーナの心に冷たい影が差した。
いけない。
また、望んでしまった。
今の時間が楽しかったと思ってしまった。
もっと一緒にいてもいいかもしれないと、考えてしまった。
リリアーナは、すぐに表情を引き締めた。
「……私は、本当に失礼しますわ」
今度こそ、背を向ける。
「はい。またお会いしましょうね、リリアーナ様」
エミリアの声が、背中に届いた。
リリアーナは返事をしなかった。
けれど、歩きながら、先ほどの光景を思い出してしまう。
慌てるエミリア。
こぼれた水。
そして、思わず漏れてしまった自分の笑い声。
口元が、わずかに緩んだ。
リリアーナはすぐに唇を引き結んだ。
誰にも見られていない。
そうわかっていても、笑ってはいけないような気がした。
楽しかったと思ってはいけない。
また会いたいと思ってはいけない。
けれど、温室を出たあとも、胸の奥には小さな温かさが残っていた。
それは、ずっと忘れていた感覚だった。
誰かと過ごす時間が、ただ楽しい。
それだけでいい。
そんな当たり前のことを、リリアーナはいつの間にか忘れてしまっていたのだ。
そして、その温かさが消えてしまうことを、少しだけ惜しいと思ってしまった。




