また、あの言葉を
温室でエミリアと会ってから、三日が過ぎた。
リリアーナは、何度も自分に言い聞かせていた。
あれは、ただの偶然だった。
たまたま同じ場所にいて、たまたま話をして、たまたま笑ってしまった。
それだけのことだ。
特別な意味などない。
そう考えることにした。
けれど、何もなかったことにするには、あの日の記憶は鮮明すぎた。
エミリアが慌てていた姿。
花が咲かないと真剣に悩んでいた顔。
そして、自分が笑ったときの、あの嬉しそうな表情。
思い出すたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それが怖かった。
幸福は、気づかないうちに心へ入り込んでくる。
ほんの小さな出来事でも、何度も思い返せば、大切な記憶になってしまう。
大切になれば、失いたくないと思ってしまう。
失いたくないと思えば、もっと一緒にいたいと願ってしまう。
そして、その願いが何を引き起こすのか。
リリアーナは、考えたくなかった。
だから、エミリアと顔を合わせないようにしようと決めた。
茶会や王宮での集まりでは、なるべく人の多い場所を避ける。
温室にも、しばらく近づかない。
これで、また元の生活に戻れるはずだった。
誰にも近づかず、誰にも期待せず、誰のことも特別に思わない。
そうすれば、何も起きない。
そう信じていた。
*
しかし、エミリアはリリアーナの決意など知らない。
それから数日、王宮で顔を合わせるたび、彼女は気軽に声をかけてきた。
「リリアーナ様、ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
「今日はお庭へ行かれるんですか?」
「いいえ」
「そうなんですね。私、少しだけ見てこようと思っていたんです」
「そうですか」
「よかったら、ご一緒にいかがですか?」
「遠慮しておきますわ」
そこで会話が終わることもあった。
けれど、エミリアは次に会ったときも、また話しかけてくる。
無理に隣へ座ろうとはしない。
返事を求めて問い詰めることもない。
ただ、挨拶をして、少しだけ言葉を交わして、時には自分の失敗を笑い話にして去っていく。
その距離感が、リリアーナには厄介だった。
強引に近づいてくるのなら、拒絶すればいい。
失礼なことを言われたのなら、腹を立てればいい。
けれど、エミリアはそうしない。
こちらが会話を終わらせれば、素直に引き下がる。
そして、次に会えば、何事もなかったかのように笑う。
どうして、そんなことができるのだろう。
リリアーナにはわからなかった。
ある日の午後、王宮の小さな図書室で、リリアーナは古い魔術書を読んでいた。
母の残した古書だけでは、わからないことが多すぎる。
そこで、関連する分野の本を探しに来たのだ。
古代魔術に関する書物は、普段使われていない棚にまとめられている。
背表紙を追いながら、リリアーナは一冊の本を抜き出した。
ページを開く。
しかし、難解な記述が続き、思うように読み進められない。
「……これは、どういう意味なのかしら」
小さく呟き、別のページをめくった。
そのとき、扉が開く音がした。
「リリアーナ様?」
聞き覚えのある声に、リリアーナは本を閉じかけた。
エミリアだった。
どうして、ここに。
「……何かご用でしょうか」
「いえ。少し本を探しに来たんです」
エミリアは室内を見回した。
「ここ、静かでいいですね」
「ええ」
「リリアーナ様は、よくこちらにいらっしゃるんですか?」
「時々ですわ」
「そうなんですね」
エミリアは本棚へ向かい、背表紙を眺め始めた。
これで会話は終わるだろう。
リリアーナは、ほっと胸を撫で下ろした。
ところが、数分もしないうちに、エミリアが困ったような声を上げた。
「うーん……」
リリアーナは顔を上げた。
「どうかなさいましたか」
「あ、この棚の本、どれも難しそうで」
「……何をお探しなのですか?」
「植物に関する本です。できれば、初心者向けのものがいいんですけど」
リリアーナは、彼女の手元を見た。
確かに、エミリアが探しているのは魔術書ではないようだった。
「それでしたら、反対側の棚にあるはずですわ」
「本当ですか?」
「ええ。園芸や薬草に関する本は、そちらにまとめられています」
「ありがとうございます!」
エミリアは嬉しそうに頭を下げた。
そして、反対側の棚へ歩いていった。
リリアーナは再び本に目を落とした。
これでいい。
話は終わった。
そう思ったのに。
「あっ、ありました!」
少し離れた場所から、弾んだ声が聞こえた。
続いて、ぱらぱらとページをめくる音。
「わあ……この花、こんなふうに育つんですね」
リリアーナは、文字を追いながら耳を傾けていた。
聞くつもりはなかった。
ただ、静かな図書室では、声がよく響くのだ。
「これ、温室の花にも使えるかしら……」
温室。
あの日、二人で話した場所。
リリアーナは、思わず顔を上げた。
エミリアは本を抱え、真剣な表情でページを読んでいた。
その姿を見ていると、温室での出来事がよみがえる。
あのとき、エミリアは花が咲かないことを気にしていた。
あれから、どうなったのだろう。
花は咲いたのだろうか。
そんなことを考えてしまい、リリアーナは慌てて視線を戻した。
関係ない。
自分には関係のないことだ。
けれど、しばらくして、また声が聞こえた。
「……やっぱり、難しいですね」
エミリアは本を閉じ、困ったように笑った。
「もっと勉強しないと」
その言葉に、リリアーナは思わず口を開いた。
「最初から、すべてを理解する必要はありませんわ」
言ってから、はっとした。
また、話しかけてしまった。
エミリアが顔を上げる。
「そうでしょうか?」
「専門書なのですから。わからない言葉があれば、ひとつずつ調べればいいのです」
「なるほど……」
エミリアは、しばらく考え込んだ。
そして、にこりと笑った。
「ありがとうございます。リリアーナ様は、やっぱりお優しいですね」
「……そのようなことはありません」
「そうですか?」
「ええ」
「でも、さっきも花のことを教えてくださいましたし、今も」
「それは……」
リリアーナは言葉に詰まった。
別に、優しくしたつもりはない。
知っていることを話しただけだ。
困っている様子だったから、少し助言しただけ。
そこに特別な意味などない。
そう説明しようとしたのに、うまく言葉が出てこなかった。
エミリアは、無理に答えを求めなかった。
「私、リリアーナ様とお話しするの、好きです」
さらりと、そんなことを言った。
リリアーナの心臓が跳ねた。
「……どうしてですの」
「どうして、と言われると困りますけど」
エミリアは少し考えてから、答えた。
「リリアーナ様って、思っていたより、いろいろなことを知っていらっしゃるんですね」
「……思っていたより?」
「あっ」
エミリアは、しまったという顔をした。
「すみません。変な意味ではなくて……その、最初は、あまりお話ししてくださらなかったので」
「それは、あなたが勝手に話しかけてくるからですわ」
「はい。そうですね」
エミリアは素直に頷いた。
そのあまりの素直さに、リリアーナは言葉を失った。
「でも、話しかけてよかったです」
エミリアは微笑んだ。
「こうしてお話しできるようになったので」
胸が、また温かくなった。
ほんの少しだけ。
誰かに、自分と話せてよかったと言われる。
そんな経験を、いつから避けてきたのだろう。
嬉しいと思ってしまった。
それが、何よりも恐ろしかった。
「……私は、そろそろ失礼しますわ」
リリアーナは本を閉じ、立ち上がった。
「あ、はい。お引き止めしてすみません」
「別に、引き止められてなど……」
言いかけて、口を閉じる。
エミリアは不思議そうにこちらを見ていた。
リリアーナは目をそらした。
「……失礼いたします」
今度こそ、図書室を出た。
廊下へ出てから、胸に手を当てる。
心臓が、いつもより速く打っていた。
怖い。
このままでは、いけない。
エミリアと話すことが、少しずつ当たり前になり始めている。
顔を合わせれば、何を話すのか気になる。
困っている様子を見ると、つい声をかけてしまう。
笑っていると、こちらまで気持ちが緩んでしまう。
こんなことを続けていたら、いつか。
いつか、もっと一緒にいたいと願ってしまう。
それだけは、絶対にいけない。
リリアーナは歩く速度を上げた。
早く帰ろう。
ひとりになれば、きっと落ち着く。
そう思いながら、胸の奥に浮かんだ言葉を、必死に押し戻そうとした。
――また、話したい。
そんな願いを抱いてしまった自分を、認めたくなかった。




