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また、あの言葉を2

 それから数日後。

 王宮では、聖女のお披露目に関する準備が進められていた。

 エミリアは正式に聖女として紹介されることになり、王宮に滞在する時間も増えていた。

 リリアーナも、婚約者としていくつかの行事に出席しなければならない。

 避けようと思っても、顔を合わせる機会は自然と増えていった。

 そして、そのたびに、エミリアは声をかけてくる。

 今日もそうだった。


「リリアーナ様、こんにちは!」


 廊下の向こうから、エミリアが手を振っている。

 リリアーナは一瞬、足を止めた。

 無視するわけにはいかない。

 けれど、立ち止まれば、また話をすることになる。

 迷った末、リリアーナは小さく頭を下げた。


「ごきげんよう、エミリア様」


「今、お時間ありますか?」


「少しだけでしたら」


 口にしたあと、リリアーナは内心で目を閉じた。

 どうして、断らなかったのだろう。

 エミリアは、嬉しそうに笑った。


「よかった。実は、お聞きしたいことがあったんです」


「何でしょう」


「温室の花なんですけど」


 リリアーナは、思わず顔を上げた。


「……花?」


「はい! あのとき教えていただいたことを試してみたら、少しだけ蕾が膨らんできたんです」


 エミリアは、まるで自分のことのように嬉しそうだった。


「まだ咲いてはいないんですけど、前より元気になった気がして」


「そうですか」


「はい。だから、お礼を言いたくて」


 リリアーナは、返事に困った。

 たった一言、助言をしただけだ。

 それなのに、わざわざ礼を言いに来たのだろうか。


「……私は、何もしていませんわ」


「そんなことありません。リリアーナ様のおかげです」


 エミリアは、迷いなく言った。

 その言葉を聞いて、リリアーナの胸の奥が温かくなった。

 嬉しい。

 そう思った。

 誰かの役に立てたことが。

 誰かが喜んでくれたことが。

 自分の言葉が、何かを良い方向へ変えたのかもしれないことが。

 嬉しかった。

 その感情に気づいた瞬間、リリアーナは息を止めた。

 だめ。

 これ以上、何も考えてはいけない。

 けれど、エミリアは気づいていない様子で、楽しそうに話を続けていた。


「花が咲いたら、また見ていただけませんか?」


「……私が?」


「はい。最初に教えてくださったのは、リリアーナ様ですから」


 リリアーナは、答えられなかった。

 花が咲いたら。

 そのとき、自分も一緒にいる。

 エミリアが嬉しそうに花を見つめる姿を、隣で見る。

 そんな光景が、頭の中に浮かんでしまった。

 穏やかな温室。

 花の香り。

 エミリアの笑顔。

 そして、自分もまた、少しだけ笑っている。

 想像しただけで、胸が温かくなった。


 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。


 その言葉が浮かんだ瞬間。

 リリアーナの顔から、血の気が引いた。

 息が、できなくなった。

 違う。

 今、何を考えたのだろう。

 どうして、あの言葉を。

 忘れたことなど、一度もなかった。

 あの夕暮れの庭。

 幼い自分が、アレクシスと過ごした時間を惜しみ、何気なく願ってしまった言葉。

 そして、その数日後に起きた事故。

 あれからずっと、リリアーナは同じ言葉を恐れてきた。

 もう二度と、口にしないと決めていた。

 心の中でさえ、願わないようにしていた。

 なのに。

 今、また。


「……リリアーナ様?」


 エミリアの声が遠く聞こえた。

 リリアーナは、彼女を見た。

 心配そうな顔をしている。

 何か言わなければ。

 いつもどおりに振る舞わなければ。

 そう思うのに、うまく息が吸えなかった。


「どうかなさいましたか? 顔色が……」


「何でも、ありませんわ」


 声が震えた。

 自分でもわかるほど、不自然だった。


「でも、すごく顔色が悪いです。どこか具合が悪いんですか?」


「大丈夫です」


 リリアーナは一歩、後ずさった。

 エミリアが手を伸ばしかける。

 その動きを見た瞬間、リリアーナは反射的に身を引いた。


「触らないで!」


 鋭い声が、廊下に響いた。

 エミリアの手が止まった。

 リリアーナ自身も、何を言ったのかわからなかった。

 ただ、怖かった。

 エミリアに触れられることが。

 この時間を失うことが。

 そして、自分がまた誰かを不幸にしてしまうことが。

 胸の中で、いくつもの感情がぶつかり合っていた。


「……申し訳、ありません」


 リリアーナは震える息を吐いた。


「私は……少し、気分が悪いので」


「リリアーナ様、待ってください」


 エミリアの声が追いかけてくる。

 けれど、立ち止まれなかった。

 今、ここにいてはいけない。

 これ以上、エミリアと話してはいけない。

 リリアーナは踵を返し、逃げるように廊下を歩き出した。


 途中、誰かとすれ違った気がした。

 声をかけられた気もした。

 けれど、何も聞こえなかった。

 ただ、あの言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。

 この時間が、ずっと続けばいいのに。

 どうして、願ってしまったのだろう。

 どうして、忘れられなかったのだろう。

 どうして、自分は。

 リリアーナは、人のいない回廊までたどり着くと、壁に手をついた。

 息が乱れていた。

 胸が苦しい。

 指先が冷たくなっていく。

 目の前の景色が、少しだけ滲んだ。


「……違う」


 小さく呟く。

 まだ、何も起きていない。

 エミリアは、今も無事だ。

 何も変わっていない。

 そうだ。

 まだ、何も。

 けれど、リリアーナの心は、すでに過去の記憶に囚われていた。

 あの日も、最初は何も起きなかった。

 願った瞬間に、誰かが倒れたわけではない。

 笑い声が消えたわけでもない。

 ただ、数日が過ぎて。

 そして、突然、事故が起きた。

 だからこそ、怖かった。

 今は何も起きていないからといって、明日も何も起きないとは限らない。


 リリアーナは、ぎゅっと目を閉じた。

 お願いだから。

 どうか、何も起きないで。

 エミリアが怪我をしませんように。

 病気になりませんように。

 大切なものを失いませんように。

 誰かを不幸にしたくない。

 もう、誰も傷つけたくない。

 それなのに、自分はまた、幸福を望んでしまった。

 ほんの一瞬。

 ほんの少しだけ。

 この時間が続けばいいと、願ってしまった。


「……どうしよう」


 声が震えた。

 どうすればいいのだろう。

 今からでも、なかったことにできるのだろうか。

 エミリアと距離を置けばいいのか。

 二度と会わなければいいのか。

 それとも、もう遅いのだろうか。

 答えは、どこにもなかった。

 リリアーナは壁に寄りかかり、その場に立ち尽くした。

 自分が何より恐れていたこと。

 それは、誰かを不幸にすることだけではなかった。

 誰かを大切に思ってしまうこと。

 その人と過ごす時間を、失いたくないと思ってしまうこと。

 そして、そんな願いを抱く自分を、止められなくなること。


 リリアーナは唇を噛みしめた。

 温室で笑ったことを、後悔したくなかった。

 エミリアと話せて嬉しかったことも。

 花が咲いたら一緒に見たいと思ったことも。

 できるなら、どれも大切な記憶として残しておきたかった。

 けれど、そんなことを願う資格など、自分にはないのかもしれない。

 また誰かが傷つくくらいなら。

 また誰かが、自分のせいで不幸になるくらいなら。

 いっそ、最初から何も望まなければよかった。

 そう思った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 それでも、リリアーナは顔を上げた。

 泣いている場合ではない。

 今は、エミリアから距離を置かなければならない。

 あの人を守るために。

 そう考えることだけが、今のリリアーナに残された道だった。

 けれど、歩き出そうとした足は、なかなか前へ進まなかった。

 心の奥では、まだ小さな声が残っていた。


 ――本当は、もう少しだけ、一緒にいたかった。


 その願いを、リリアーナは誰にも聞かれないように、胸の奥へ押し込めた。

 そして、何事もなかったかのように背筋を伸ばし、ゆっくりと歩き始めた。

 この先に何が待っているのか。

 今のリリアーナには、まだわからなかった。

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