一冊の古書
翌日の午後。
リリアーナは、屋敷の書庫にいた。
普段、彼女が読むのは小説や歴史書が中心だった。
魔術についても基礎的な知識はあるが、専門的な研究書に触れる機会はほとんどない。
それでも、今は少しでも手がかりが欲しかった。
昨日、過去の出来事を書き出して気づいたこと。
幸福のあとに不幸が起きるのは、ただ嬉しかったときではなく、何かを強く望んだときなのかもしれない。
その仮説が正しいかどうかはわからない。
けれど、もし自分の身に起きていることに何らかの仕組みがあるのなら、魔術に関係している可能性もある。
リリアーナは書棚の前をゆっくりと歩いた。
古い魔術理論。
属性魔法の歴史。
王国成立以前の記録。
背表紙を目で追いながら、関係がありそうな本を抜き出していく。
しかし、どれを開いても、求めている答えにはたどり着けなかった。
魔力は人の意思に反応することがある。
強い感情が魔法の発動に影響する場合もある。
そうした記述は見つかったが、幸福と不幸が結びつくような話はない。
「……そう簡単には見つからないわね」
小さく息をついたとき、書棚の奥に、ほかの本とは違う一冊が目に留まった。
背表紙の色は褪せ、題名もほとんど読めない。
長い間、誰も手に取っていないのだろう。表面には薄く埃が積もっていた。
リリアーナは手を伸ばした。
その本を引き抜くと、古びた革の匂いがした。
表紙を開く。
最初の数ページには、古い文字で書かれた研究記録が並んでいた。専門的な言葉が多く、すぐには意味がつかめない。
けれど、ページをめくるうちに、見覚えのある文字が目に入った。
『幸福』
リリアーナの指が止まった。
次の行には、こう記されていた。
『対価』
さらに、その下には。
『特殊魔術』
胸の奥がざわめいた。
幸福と対価。
その二つの言葉が、どうして同じ場所に書かれているのだろう。
リリアーナは椅子を引き寄せ、本を机の上に置いた。
慎重にページをめくっていくと、ところどころに図形や術式らしきものが描かれていた。
通常の属性魔法とは違う。
火や水、風や光といった魔力の性質を示す記号ではなく、複数の円と線が複雑に組み合わさっている。
その横には、かすれた文字で説明が添えられていた。
古い言葉遣いのせいか、すべてを読み取ることはできない。
それでも、いくつかの単語は判別できた。
『幸福を魔力へと変換する』
リリアーナは息を止めた。
もう一度、文字を追う。
読み間違いではない。
幸福を、魔力へ変換する。
そんなことが可能なのだろうか。
魔力は人の中に生まれ、訓練や生まれ持った資質によって扱える量や性質が変わる。
幸福という感情そのものを、魔力に変える。
リリアーナが知る限り、そんな術式は聞いたことがなかった。
さらにページをめくる。
次の箇所には、長い文章があったはずだった。
しかし、そこだけが不自然に破り取られている。
残された紙の端は古く変色しており、最近破られたものではなさそうだった。
「どうして……」
誰が、何のために。
そう考えてから、リリアーナは口を閉じた。
この本がいつからここにあったのかさえ、彼女にはわからない。
破られた理由を考えても、答えは出なかった。
残されたページを調べると、何度も繰り返し書かれた言葉が見つかった。
『対価』
『移動』
『分配』
それぞれ別の箇所に記されている。
幸福を魔力に変える。
そして、対価、移動、分配。
リリアーナの頭の中で、昨日書き出した記録がよみがえった。
自分が何かを強く望んだあとに、誰かが不幸になる。
もし、その二つに関係があるのなら。
幸福が、どこかへ移されているのだとしたら。
そんな考えが浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
自分が幸せになったことで、誰かから何かを奪っている。
その可能性を考えるだけで、胸が苦しくなる。
けれど、まだ何もわかっていない。
この本に書かれている術式が、自分の身に起きている現象と関係しているという証拠はない。
ただ、無関係だと言い切ることもできなかった。
リリアーナは本の最後の方まで目を通した。
研究の目的らしき記述もあったが、肝心な部分は欠けている。誰が何のためにこの術式を研究していたのか、はっきりとはわからない。
ただ、見覚えのある文字が、ページの隅に小さく記されていた。
母の名前だった。
セレナ。
リリアーナは、しばらくその文字を見つめていた。
母が魔術の研究をしていたことは知っている。
けれど、母がどんな研究をしていたのか、詳しく聞いたことはなかった。
母が亡くなったのは、リリアーナがまだ幼い頃だ。
残された記憶は少なく、母について尋ねようとしても、父が寂しそうな表情を浮かべることがあった。
だから、深く聞くことを避けてきた。
この本が母の研究に関係しているのなら。
自分の知らない母の姿が、ここに残されているのかもしれない。
リリアーナは、破れたページの端にそっと触れた。
母は、何を調べていたのだろう。
そして、どうして肝心な部分が失われているのだろう。
問いは増えるばかりだった。
それでも、何もわからなかった昨日とは違う。
幸福を魔力へ変換する術式。
対価。
移動。
分配。
そして、母の名前。
これらが何を意味しているのか、今のリリアーナにはわからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
自分の身に起きていることを調べる手がかりが、初めて見つかったのだ。
リリアーナは本を閉じた。
誰かに相談するべきだろうか。
父に見せれば、何か知っているかもしれない。
けれど、父がこの本について何も知らなかったら。
自分のせいで誰かが不幸になっているかもしれないと、打ち明けたら。
心配させるだけでは済まないかもしれない。
今はまだ、話せなかった。
リリアーナは本を元の場所へ戻そうとして、手を止めた。
そして、誰にも見つからないように持ち帰ることにした。
まだ答えはない。
けれど、この本を読めば、いつか何かがわかるかもしれない。
その小さな期待を抱いた自分に気づき、リリアーナは唇を引き結んだ。
期待してはいけない。
そう思いながらも、胸の奥では、今までになかった感情が静かに芽生え始めていた。
恐怖だけではない。
知りたい、という気持ちだった。




