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幸福の条件

 夜更けの自室には、紙をめくる音だけが響いていた。


 リリアーナは机の上に何枚もの紙を広げ、羽根ペンを握りしめていた。

 書き出したのは、これまで自分の身の回りで起きた出来事だ。


 父が誕生日を祝ってくれたこと。

 その翌日に、使用人が階段から落ちて怪我をしたこと。

 アレクシスと庭で遊んだこと。

 また一緒に遊びたいと願った数日後、彼が乗馬中に怪我をしたこと。

 幼い頃、仲良くしていた令嬢と過ごしたこと。

 その後、彼女の家で不幸があったと聞いたこと。


 一つひとつ思い返すたび、胸の奥が重くなった。

 どれも、リリアーナにとって大切な記憶だった。

 だからこそ、忘れることができない。

 忘れてしまえば、あのとき感じた喜びまでなかったことになってしまう気がした。

 けれど、覚えている限り、あの出来事はずっと彼女の心に残り続ける。


「……やっぱり、私が悪いのかしら」


 呟いた声は、誰もいない部屋に溶けて消えた。

 リリアーナはペン先を紙に落とした。

 これまで、彼女は幸福と不幸が続けて起きることを、ただの偶然だと思おうとしてきた。

 自分が嬉しかったからといって、誰かが怪我をするはずがない。

 そんなことはわかっている。

 わかっているのに、同じようなことが何度も起きれば、疑わずにはいられなかった。


 自分が笑ったから。

 誰かと一緒にいたいと願ったから。

 その時間が続けばいいと思ったから。

 だから、誰かが不幸になったのではないか。

 考え始めると、きりがなかった。


 リリアーナは紙の端を指で押さえ、これまでの出来事をもう一度見比べた。

 そこに並んでいるのは、幸福と不幸。

 けれど、すべての出来事に共通するものがあるわけではなかった。

 嬉しいことがあった翌日に、何も起きなかったこともある。


 父と食事をした日。

 お気に入りの本を読んだ日。

 庭に咲いた花を見て、綺麗だと思った日。

 そうした小さな幸福のあとには、何も起きていない。

 少なくとも、リリアーナが知る限りでは。


「ただ嬉しかっただけなら……」


 そこで言葉が止まった。

 胸の中に、ひとつの記憶が浮かんだ。

 幼い頃、父から贈り物をもらった日のこと。

 嬉しくて、楽しくて、もっとこの時間が続けばいいと思った。

 そして、翌日。

 あの使用人が怪我をした。

 アレクシスと過ごした日もそうだった。

 ただ一緒に遊んでいただけではない。

 帰り際、リリアーナは願ってしまったのだ。

 この時間が、ずっと続けばいいのに、と。

 それから数日後、アレクシスは怪我をした。


 リリアーナはペンを握る手に力を込めた。

 もし、幸福そのものが原因ではないとしたら。

 何かを強く望むことが、いけないのだろうか。

 ただ楽しいと思うだけなら何も起きない。

 けれど、その幸福を失いたくないと思った瞬間に、何かが変わるのだとしたら。


「……そんなこと、あるはずがないわ」


 自分で口にして、否定した。

 そんな都合のいい考えにすがりたくなかった。

 もし間違っていたら。

 もし、今までの出来事がすべて偶然で、これからは普通に生きていけるのだと信じてしまったら。

 その先で、また誰かが傷つくかもしれない。

 リリアーナには、その可能性を確かめる勇気がなかった。

 けれど、何も考えずに恐れ続けることにも、もう限界を感じていた。

 彼女は紙の一番下に、ゆっくりと文字を書いた。


『ただ幸せになるだけでは、何も起きないのではないか』


 書き終えた瞬間、胸がどきりとした。

 これは希望だ。

 そう思った途端、リリアーナは慌てて首を横に振った。

 期待してはいけない。

 自分に都合のいい答えを、勝手に作り出してはいけない。

 それでも、一度生まれた疑問は消えてくれなかった。

 幸福そのものが悪いのではないのなら。

 何かを望むことが、原因なのだとしたら。

 そこには、何かしらの決まりがあるのではないだろうか。

 決まりがあるのなら、知ることができるかもしれない。

 知ることができれば、誰かを傷つけずに済む方法が見つかるかもしれない。


 リリアーナは机の上の紙を集め、丁寧に揃えた。

 そして、一番上に置いた紙を見つめる。

 自分が幸せになってはいけないという思いは、今も変わらない。

 けれど、もしそれが本当のことではなかったら。

 もし、自分が知らない何かがあるのなら。

 確かめるくらいは、許されるだろうか。

 窓の外では、夜が深まっていた。

 リリアーナは灯りを消す前に、もう一度だけ紙を見た。

 そこに書かれた問いは、答えのないまま残されている。

 それでも、これまでとは少しだけ違っていた。

 ただ恐れるのではなく、自分で考えようとしている。

 それは、彼女にとって小さな一歩だった。

 けれど同時に、ずっと目を背けてきたものへ、自分から手を伸ばすことでもあった。


 ――本当に、私は幸せになってはいけないのだろうか。


 その問いが胸の奥に残り続けていることを、リリアーナはまだ誰にも話せなかった。

 ただ一人で、答えを探し始めていた。


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