小さな願い
「お嬢様、お誕生日の贈り物が届いております」
朝食を終えたリリアーナに、侍女が声をかけた。
窓から差し込む朝の光が、白いテーブルクロスを照らしている。
銀の食器は磨き上げられ、花瓶には庭師が選んだばかりの花が飾られていた。
いつもと変わらない公爵邸の朝。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの胸は小さく跳ねた。
「……贈り物?」
「はい。旦那様からでございます」
侍女が両手で抱えていた箱を、テーブルの脇へ置いた。
淡いクリーム色の包装紙に、深い赤色のリボン。
大きさからして、衣装か装飾品だろうか。
リリアーナは、しばらくそれを見つめた。
嬉しい。
そう思った。
父が自分のために贈り物を用意してくれた。
そのことが、純粋に嬉しかった。
けれど、すぐに別の感情が胸の奥から湧き上がってくる。
喜んではいけない。
嬉しいと思ってはいけない。
この贈り物を受け取って、もっと幸せになりたいと思ってしまったら。
また、何かが起きるかもしれない。
「お嬢様?」
侍女が不思議そうに顔を覗き込んだ。
リリアーナは、そっと視線を上げた。
「……お父様に、お礼を申し上げておいて」
「直接お伝えにならないのですか?」
「今日は少し、予定がありますから」
嘘だった。
予定など、何もない。
ただ、父に会うのが怖かった。
贈り物を受け取れば、きっと父は笑ってくれる。
気に入ったかと尋ねてくれる。
昔のように、嬉しそうな顔をしてくれるかもしれない。
その顔を見たら、私も嬉しくなってしまう。
もっと父と話したい。
もっと一緒にいたい。
そんな当たり前の願いを、抱いてしまうかもしれない。
だから、会わない。
「……かしこまりました」
侍女は何か言いたそうだったが、結局、深く頭を下げた。
リリアーナは席を立ち、食堂を後にした。
背中に視線を感じた。
振り返らなかった。
*
部屋に戻っても、贈り物のことが頭から離れなかった。
父は、どんな気持ちで選んでくれたのだろう。
私に似合うものを考えてくれたのだろうか。
それとも、以前私が欲しいと言ったものを覚えていてくれたのだろうか。
箱の中身が気になった。
開けてみたい。
リボンを解いて、包装紙をめくって、父が選んでくれたものを見てみたい。
けれど、そう思う自分を、リリアーナは押しとどめた。
贈り物をもらうだけなら、問題はないのかもしれない。
ただ嬉しいと思うだけなら、何も起こらないのかもしれない。
それでも、彼女にはその違いが分からなかった。
幼い頃の誕生日。
父が笑ってくれた日。
アレクシスと笑い合った夕暮れ。
私は、あの時間がずっと続けばいいのにと願った。
偶然だと言い切るには、似たことが多すぎる。
けれど、何が原因なのかも分からない。
ただ一つ確かなのは、私が幸せを願ったあと、誰かが傷つくことを恐れるようになったということだった。
それならば。
幸せを願わなければいい。
贈り物をもらっても、嬉しいと思わなければいい。
父と過ごす時間が楽しくても、もっと一緒にいたいと願わなければいい。
誰かの好意を、好意として受け取らなければいい。
そうすれば、少なくとも私は、何かを引き起こすことを恐れずに済む。
リリアーナは窓辺に立った。
庭では、庭師が花壇の手入れをしている。
少し離れた場所で、若い使用人が水の入った桶を運んでいた。
その姿を見て、リリアーナは思わず声をかけそうになった。
重そうね。
手伝いましょうか。
以前なら、何も考えずに言えた言葉だ。
けれど、口を開く前に思いとどまる。
親しくなれば、その人を気にかけるようになる。
気にかければ、無事でいてほしいと願ってしまう。
その願いが、もしも。
リリアーナは、窓から手を離した。
何も言わなかった。
使用人は桶を運び終えると、同僚と笑い合いながら庭の奥へ消えていった。
何事もなかったように、穏やかな朝が続いている。
それでいい。
誰も私を気にかけなくていい。
私も、誰かを特別に気にかけなければいい。
それが、みんなを守る方法なのだから。
*
昼過ぎ、公爵邸の廊下で父と顔を合わせた。
「リリアーナ」
呼び止められ、彼女は足を止めた。
「お父様」
公爵は、いつものように穏やかな表情をしていた。
厳格な人物として知られる彼だが、娘に向ける眼差しは柔らかい。
リリアーナは、その目を見るのが苦手だった。
自分を大切にしてくれていることが、分かってしまうから。
「今朝、贈り物を届けさせたのだが……気に入らなかったかな?」
「いいえ。そのようなことはございません」
「そうか。まだ開けていないと聞いたので、少し心配になってね」
公爵は困ったように笑った。
「お前が喜んでくれるものを選んだつもりだったのだが、私の見立ては外れたかな」
「そんなことはありません。お気遣い、ありがとうございます」
リリアーナは、丁寧に頭を下げた。
言葉遣いも、表情も、完璧だった。
それなのに、父の顔から少しずつ笑みが消えていく。
「……リリアーナ」
「はい」
「お前は、いつからそんなふうに話すようになったのだろうな」
思いがけない言葉だった。
リリアーナは、顔を上げた。
「そんなふう、とは?」
「まるで、私が他人であるかのように」
公爵の声は、責めるようなものではなかった。
ただ、寂しそうだった。
「昔はもっと、何でも話してくれた。欲しいものがあれば欲しいと言ったし、嬉しいときは笑っていた。私が仕事から戻ると、廊下を走って迎えに来たこともあっただろう?」
覚えている。
全部、覚えている。
父が帰ってくると、私は玄関まで走っていった。
抱き上げてもらうのが好きだった。
今日は何をしていたのかと尋ねられるたび、庭で見つけた花や、読んだ本の話を夢中で語った。
父はいつも、最後まで聞いてくれた。
忙しいはずなのに、私の話を面倒がったことは一度もなかった。
あの頃は、父と過ごす時間が大好きだった。
今だって、本当は。
「……私も、もう子供ではありませんから」
口から出たのは、いつもの言葉だった。
公爵はしばらく黙っていた。
「そうだな。お前も、もう立派な淑女だ」
そう言いながらも、彼の表情は晴れなかった。
「だが、私は……」
公爵は言葉を探すように、わずかに視線を落とした。
「お前が無理をしているのではないかと、ときどき心配になる」
胸が痛んだ。
父は、気づいているのだ。
私が無理をしていることに。
何かを隠していることに。
けれど、父にだけは知られたくなかった。
これ以上、心配をかけたくない。
私のせいで、父まで不幸になったらどうしよう。
そんなことを考える自分が、嫌だった。
「ご心配には及びませんわ。私は元気です」
「本当に?」
「はい」
嘘をついた。
父の目を見ながら、何も問題はないと告げた。
公爵は、娘の言葉を疑うように眉を寄せた。
けれど、追及はしなかった。
「……そうか」
その一言が、かえって苦しかった。
「何か困ったことがあれば、いつでも話しなさい。お前は私の娘なのだから」
「ありがとうございます、お父様」
また、礼儀正しく頭を下げる。
公爵は少しだけ手を伸ばしかけた。
幼い頃なら、きっと頭を撫でてくれたのだろう。
けれど、彼の手は途中で止まり、やがて静かに下ろされた。
「では、私は仕事に戻るよ」
「はい」
父が去っていく。
リリアーナは、その背中を見送った。
呼び止めたかった。
お父様。
もう一度、そう呼びたかった。
そして、昔のように話したかった。
今日のお茶は少し苦かったこと。
窓の外に、見たことのない鳥が来ていたこと。
父が選んでくれた贈り物が、どんなものだったのか気になっていること。
そんな、何でもない話を。
けれど、声は出なかった。
私は、お父様が大切だ。
だからこそ、これ以上近づくわけにはいかない。
父の背中が角を曲がり、見えなくなってから、リリアーナはようやく息を吐いた。
胸の奥が、ひどく苦しかった。
*
その日の夕方。
リリアーナは、誰もいない部屋で贈り物の箱を前にしていた。
昼間、父と話したあと、侍女に頼んで部屋へ運んでもらったのだ。
結局、開けずにいることはできなかった。
箱の上に置かれた赤いリボンを、そっと指でなぞる。
何が入っているのだろう。
その答えを知りたいと思うことさえ、いけないことのように感じた。
けれど、父が自分のために選んでくれたものを、見ないままでいるのも苦しかった。
リリアーナは、ゆっくりとリボンを解いた。
包装紙を開く。
中から現れたのは、小さな木箱だった。
蓋を開けると、淡い真珠色の髪飾りが入っていた。
繊細な銀細工の中央に、小さな白い花があしらわれている。
派手ではない。
けれど、光を受けるたびに柔らかく輝く、美しい髪飾りだった。
リリアーナは、そっと手に取った。
指先に、ひんやりとした感触が伝わる。
以前、父と一緒に王都の店を訪れたとき、ショーウィンドウに飾られていたものによく似ていた。
あのとき、私は足を止めたのだ。
綺麗だな、と。
ただ、それだけのこと。
買ってほしいと頼んだわけではない。
欲しいとねだったわけでもない。
それなのに、父は覚えていてくれた。
リリアーナの目に、じわりと涙が滲んだ。
嬉しかった。
父が、自分の何気ない言葉を覚えていてくれたことが。
私のために、これを選んでくれたことが。
今すぐ父のところへ行って、お礼を言いたかった。
とても綺麗です。
大切にします。
ありがとうございます、お父様。
そして、できることなら。
また一緒に、お店へ行きたい。
そんな願いが、胸の中に生まれかけた。
リリアーナは、慌てて目を閉じた。
だめ。
そこまで考えてはいけない。
嬉しいと思うだけなら、大丈夫なのかもしれない。
髪飾りを受け取っただけなら、何も起こらないかもしれない。
けれど、私はもう、何を信じればいいのか分からない。
ただの偶然だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
それでも、大切な人が傷つくたび、怖くなる。
私のせいなのではないかと。
だから私は、ここで止まらなければならない。
これ以上、望んではいけない。
リリアーナは髪飾りを木箱へ戻した。
蓋を閉め、箱を机の引き出しへしまう。
そして、鏡の前に座った。
鏡の中の少女は、泣きそうな顔をしていた。
リリアーナは、唇を引き結んだ。
目元を拭い、表情を整える。
誰にも見られないように。
誰にも気づかれないように。
自分が、どれほど寂しいのか。
どれほど、本当は誰かと笑い合いたいのか。
そんなことを、誰にも知られないように。
「……これでいいの」
小さく呟く。
父が自分を大切にしてくれていることは、分かっている。
だからこそ、これ以上、父の優しさに甘えてはいけない。
私は幸せになってはいけないのかもしれない。
少なくとも、誰かを犠牲にしてまで、幸せになりたいとは思わない。
それならば。
私が我慢すればいい。
私が笑わなければいい。
私が、幸せにならなければいい。
そうすれば、誰も傷つかずに済むはずだから。
リリアーナは、引き出しの奥にしまった髪飾りを、もう一度だけ思い浮かべた。
いつか、何も恐れずに喜べる日が来るのだろうか。
父の贈り物を、心から嬉しいと言える日が。
誰かと過ごす時間を、明日も続けばいいと願える日が。
考えかけて、彼女はすぐにその思考を打ち消した。
そんな日は来ない。
来てはいけない。
そう思い込むことでしか、今の彼女は自分を保てなかった。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
屋敷の中には、夕食の支度をする音が響いていた。
いつもと変わらない、穏やかな一日。
誰も傷ついていない。
父も、使用人たちも、皆いつもどおりに過ごしている。
それでいい。
今日も、私は何も望まなかった。
だから、きっと大丈夫。
リリアーナは、窓の向こうの夕空から目を逸らした。
その胸の奥に、小さな願いが残っていることには、気づかないふりをした。
――いつか、もう一度。
何も恐れずに、笑えますように。




