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代償の秘密

 王宮で開かれる茶会の招待状が届いたのは、朝食を終えた直後だった。

 封蝋には王家の紋章。

 差出人は王太子妃殿下の名で、季節の花を愛でながら、親しい令嬢たちと午後のひとときを過ごしたいという内容が記されていた。

 社交界において、王家からの招待を断ることは簡単ではない。

 まして、王太子の婚約者であるリリアーナには、出席しなければならない理由がいくつもあった。


「お嬢様、お召し物はいかがなさいますか?」


 侍女が衣装部屋の扉を開きながら尋ねた。

 淡い桃色のドレス。

 薄紫のドレス。

 春らしい花の刺繍が施された白いドレス。

 どれも、リリアーナによく似合うものばかりだった。

 以前の彼女なら、どれを着ようかと迷ったかもしれない。

 けれど今は、違った。


「目立たないものをお願い」


「目立たない、ですか?」


「ええ。装飾も少ないものがいいわ」


「ですが、王家のお茶会ですから、もう少し華やかなお召し物でも……」


「必要ありません」


 侍女は口を閉ざした。

 リリアーナは鏡台の上に置かれた招待状へ目を落とす。

 茶会に出席すること自体は、苦痛ではない。

 ただ、そこで誰かに好意を持たれることが怖かった。

 親しくなりたいと言われること。

 また一緒に過ごしましょうと笑いかけられること。

 あなたといると楽しい、と言われること。

 そんな言葉を受け取るたび、胸の奥に小さな期待が生まれてしまう。


 もっと話したい。

 もっと仲良くなりたい。

 この時間が続けばいい。

 そう願ってしまう前に、私は相手を遠ざけなければならない。


「お嬢様?」


「……白いドレスを用意してちょうだい。装飾の少ないものを」


「かしこまりました」


 侍女が衣装を取りに行く。

 リリアーナは鏡に映る自分を見つめた。

 淡い髪。

 整った顔立ち。

 幼い頃は、父からよく可愛いと言われた。

 笑えば、もっと可愛いのに。

 そんなふうに言われたこともある。

 けれど、今の私は笑わない。

 笑わなければ、誰かにもっと近づきたいと思わずに済む。

 誰かを大切にしたいと願わずに済む。

 それでいいのだ。


 *


 王宮の温室には、色とりどりの花が咲き誇っていた。

 大きな硝子窓から差し込む陽光が、白いテーブルクロスを照らしている。

 紅茶の香りと、焼き菓子の甘い匂い。

 令嬢たちの楽しげな笑い声。

 その中に、リリアーナは静かに座っていた。


「リリアーナ様も、こちらのお菓子を召し上がりませんか?」


 隣に座った令嬢が、皿を差し出した。

 伯爵家の令嬢で、名前は確か、クラリスだったはずだ。

 以前、何度か挨拶を交わしたことがある。

 彼女は少し緊張した様子だったが、それでも笑顔を向けてくれていた。


「ありがとう。でも、結構よ」


「そうですか……」


 クラリスは皿を引いた。

 ほんの一瞬、残念そうな表情を浮かべたように見えた。

 リリアーナは、それを見ないふりをした。


 本当は、受け取ってもよかった。

 お菓子を一つ食べて、おいしいと伝えて、彼女の好きなものを尋ねる。

 そんな会話をすることだってできた。

 けれど、そこから何かが始まってしまうかもしれない。

 次の茶会でも隣に座りましょうと誘われるかもしれない。

 彼女と過ごす時間を、楽しいと思ってしまうかもしれない。

 だから、断った。

 それだけのことだ。

 なのに、向かい側に座っていた令嬢が、小さく笑った。


「クラリス様、無理にお勧めしなくてもよろしいのではなくて?」


「え?」


「リリアーナ様は、あまり人と親しくなりたくない方なのでしょう?」


 柔らかな口調だった。

 表面だけを見れば、何気ない会話にすぎない。

 けれど、その目には隠しきれない好奇心があった。


「……そういうわけでは」


 クラリスが困ったように言いかける。

 別の令嬢が、その言葉を遮った。


「でも、実際そうではありませんか。せっかくお話ししようとしても、いつもすぐに会話を終わらせてしまうでしょう?」


「それは……」


「王太子殿下に対しても、同じなのだとか」


 その言葉に、数人の令嬢が顔を見合わせた。


「婚約者でいらっしゃるのに?」


「ええ。殿下がどれほど話しかけても、ほとんど相手になさらないと聞きましたわ」


「まあ……」


 リリアーナは、手元のティーカップを見つめた。

 反論することはできた。

 アレクシスに冷たくしているのは、嫌いだからではない。

 誰よりも大切だからこそ、遠ざけているのだと。

 けれど、そんなことを説明したところで、誰が信じるだろう。

 それに、言葉にしてしまえば、自分の中にある気持ちまで認めなければならなくなる。


 私は、アレクシスと一緒にいたい。

 本当は、昔のように笑い合いたい。

 けれど、その願いを叶えようとすれば、また彼を傷つけてしまうかもしれない。

 だから、何も言わなかった。

 令嬢の一人が、声を潜めた。


「……それに、あの噂もありますでしょう?」


 空気が変わった。

 誰もが、話の続きを待つように口を閉ざす。


「あの方の周りでは、不幸が起こるという……」


「やめてください」


 クラリスが小さく声を上げた。


「そんなこと、確かな証拠があるわけではありませんわ」


「もちろん、証拠なんてありませんわ。でも、実際に起きていることもあるでしょう?」


「それは偶然かもしれません」


「ええ、偶然かもしれませんわね」


 そう言った令嬢は、笑っていた。


「でも、わざわざ確かめる必要もありませんでしょう? 関わらなければいいだけなのですから」


 リリアーナの指先が、カップの取っ手をきゅっと握った。

 聞き慣れた言葉だった。

 近づかない方がいい。

 関わらない方がいい。

 あの方の周りでは不幸が起きる。

 人々は、それを噂として口にする。


 けれど、私にとっては、ただの噂ではなかった。

 私は、あの出来事を覚えている。

 嬉しかった記憶のすぐそばに、誰かが傷ついた記憶がある。

 それらが本当に繋がっているのか、私には分からない。

 偶然だと考えることもできる。

 それでも、もし。

 もしも、本当に私が原因なのだとしたら。

 彼女たちの言うことは、間違っていないのかもしれない。


「リリアーナ様?」


 クラリスが心配そうにこちらを見た。

 その優しさに、リリアーナは一瞬だけ目を上げた。

 大丈夫です。

 そう言いたかった。

 気にしないでください、と。

 けれど、その言葉を口にすれば、彼女はきっと、もっと優しくしてくれるだろう。

 それが怖かった。


「……少し、失礼いたしますわ」


 リリアーナは立ち上がった。


「もうお帰りになるのですか?」


「ええ。少し気分が優れませんので」


 それだけ告げて、温室を後にした。

 背後から、誰かの声が聞こえた。


「やはり、気難しい方ね」


「ええ。少し話しかけただけで、あのような態度を取られるなんて」


 足を止めそうになった。

 けれど、振り返らなかった。

 彼女たちの目には、私は高慢で、冷たくて、誰かを見下している令嬢に映っているのだろう。

 それでいい。

 嫌われていれば、近づいてくる人は減る。

 私に好意を持たなければ、私と過ごす時間を望むこともない。

 そうすれば、誰かが傷つく可能性も減るはずだ。

 たとえ、私がどれほど傷ついたとしても。


 *


 公爵邸に戻った頃には、夕暮れが迫っていた。

 リリアーナは馬車から降りると、迎えに出ていた侍女へ手袋を渡した。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま」


「お茶をお持ちいたしましょうか?」


「いいえ。部屋で休みます」


 短く答えて、階段へ向かう。

 その背中を、侍女が心配そうに見送っていた。

 リリアーナは気づいていた。

 使用人たちが、自分を案じていることに。


 以前は、彼らの気遣いが嬉しかった。

 風邪を引けば温かい飲み物を用意してくれたし、勉強に疲れれば甘いお菓子を差し入れてくれた。

 誕生日には、皆が小さな花束を用意してくれたこともある。

 あのときは、本当に嬉しかった。

 嬉しくて、もっとこの屋敷が好きになった。

 けれど、もしもその気持ちが、また誰かを不幸にするのなら。

 私は、喜んではいけない。


 部屋に戻ると、リリアーナは扉を閉めた。

 そして、鏡台の前に腰を下ろす。

 鏡の中の自分は、いつもと変わらない顔をしていた。

 涙は出なかった。

 泣く資格がないと思っていたわけではない。

 ただ、泣いたところで何も変わらないと知っていた。


「……これでいいのよ」


 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

 嫌われていればいい。

 気味が悪いと思われていればいい。

 誰も私を好きにならなければ、私も誰かを好きにならずに済む。

 そんなことが、本当にできるのかは分からない。

 それでも、そうするしかなかった。


 その夜。

 夕食を終えたリリアーナは、自室の書棚の前に立っていた。

 並んでいるのは、幼い頃から読んできた物語や、貴族の礼儀作法について書かれた本ばかりだ。

 けれど、今夜探しているのは、そのどれでもない。

 母が亡くなったあと、父の書斎から運ばれてきた数冊の本。

 生前、母が読んでいたものだと聞いている。

 その中に、魔術に関する古い書物があったはずだった。


 リリアーナは棚の奥へ手を伸ばした。

 埃をかぶった背表紙を、一本ずつ確かめる。

 そして、ようやく見つけた。

 濃い茶色の革表紙。

 金色の文字はほとんど擦り切れ、題名の一部しか読めない。

 彼女は本を取り出し、机の上へ置いた。

 表紙を開く。

 古い紙の匂いがした。

 知らない文字や、複雑な魔法陣が並んでいる。

 すべてを理解できるわけではない。

 それでも、ページをめくるうちに、いくつかの言葉が目に留まった。


 ――幸福。

 ――対価。

 ――特殊魔術。


 リリアーナの指が止まる。

 幸福。

 その文字を、彼女はしばらく見つめていた。

 偶然なのだろうか。

 母が研究していた魔術と、私の身に起きていることは、何か関係があるのだろうか。

 答えは、まだどこにもなかった。

 けれど。

 このまま何も知らずに、ただ怖がり続けるのは嫌だった。

 自分が何をしてしまうのかも分からないまま、大切な人たちを遠ざけ続けるのは。

 それでは、何も変わらない。


 リリアーナは小さな灯りの下、もう一度、最初のページから読み始めた。

 誰にも知られないように。

 誰にも心配をかけないように。

 自分の身に何が起きているのかを、自分の力で知るために。

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