幼い約束
王宮からの帰り道、馬車の窓に映った自分の顔を見て、リリアーナは小さく息を吐いた。
今日も、うまくできただろうか。
誰とも必要以上に親しくならず、余計なことを口にせず、笑顔を見せすぎることもなかった。
アレクシス殿下とも、ほんの少し言葉を交わしただけだ。
それでいい。
これ以上、彼に近づいてはいけないのだから。
そう自分に言い聞かせていると、不意に、窓の外を流れる景色が見覚えのあるものへと変わった。
王都から公爵邸へ向かう途中にある、小さな庭園。
幼い頃、父に連れられて何度か訪れた場所だった。
その景色を目にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
忘れたことなど、一度もない。
忘れられるはずもない。
あの頃の私は、今よりずっと単純で、ずっと無邪気だった。
そして、アレクシス殿下も。
*
まだ私たちが幼かった頃。
アレクシス殿下は、今のように王太子としての振る舞いを求められることも少なく、私の前では年相応の少年だった。
初めて会った日のことは、あまり覚えていない。
気づけば私たちは、王宮の庭で一緒に遊ぶ仲になっていた。
「リリアーナ、こっちだ!」
「待ってください、殿下!」
「殿下じゃない。二人でいるときくらい、アレクシスと呼んでくれ」
「ですが……」
「じゃあ、僕も君をリリアーナと呼ぶ。これでおあいこだ」
彼はそう言って、悪戯っぽく笑った。
今思えば、ずいぶん強引な少年だったと思う。
けれど、当時の私はそんな彼に振り回されるのが嫌ではなかった。
庭園の奥にある噴水を一緒に覗き込んだり、木陰に座って本を読んだり、時には侍従たちの目を盗んで、庭師の手伝いをしているつもりになったり。
何をしていたのかと聞かれれば、特別なことは何もしていなかった。
ただ、二人で過ごしていた。
それだけで、毎日が少しだけ輝いて見えた。
「リリアーナは、何をしているときが一番楽しい?」
ある日の午後、アレクシスが尋ねた。
私たちは庭園の芝生に並んで座り、庭師が剪定したばかりの生け垣を眺めていた。
「そうですね……」
私は考えた。
おいしいお菓子を食べること。
新しい本を読むこと。
父に褒めてもらうこと。
どれも嬉しい。
けれど、一番と聞かれると、すぐには答えられなかった。
「アレクシス様とお話ししているとき、でしょうか」
口にしてから、頬が熱くなった。
まだ幼かった私は、自分の気持ちを隠すことが今ほど上手ではなかったのだ。
アレクシスは一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。
「それなら、明日も話そう」
「明日も?」
「ああ。明後日も、その次の日も」
彼は指を折りながら続けた。
「僕が忙しくなければ、毎日だっていい」
「毎日ですか?」
「嫌なのか?」
「いいえ!」
思わず大きな声が出てしまった。
アレクシスは目を丸くしたあと、また笑った。
私もつられて笑った。
今なら分かる。
あの頃の私は、何の疑いもなく幸福を受け取っていたのだ。
明日も会える。
明後日も一緒にいられる。
そんな当たり前のことが、ずっと続くのだと信じていた。
*
それから数年が経った、ある日の夕暮れ。
私たちは、いつもの庭園で並んで座っていた。
夕日が木々の間から差し込み、芝生を淡い金色に染めている。
アレクシスは少し背が伸び、以前よりも落ち着いた雰囲気を身につけ始めていた。
それでも、私といるときの表情は昔と変わらない。
「今日の授業はどうだった?」
「歴史の先生が、また同じ話をなさるんです。前にも聞いたと申し上げたら、復習は大切だとおっしゃって……」
「ははっ。君らしいな」
「笑わないでください」
「悪い。けれど、君がそんなふうに不満を言うのは珍しいから」
私は口を尖らせた。
すると彼は、ますます楽しそうに笑う。
その顔を見ていると、私までおかしくなってきた。
気づけば、私は声を立てて笑っていた。
誰かにどう思われるかも、何を言えば正しいのかも考えなかった。
ただ、楽しかった。
アレクシスと過ごす時間が、何よりも大切だった。
「……リリアーナ?」
「はい?」
「今日は、よく笑うな」
そう言われて、私は少しだけ恥ずかしくなった。
「アレクシス様といると、楽しいのです」
「そうか」
彼は照れたように視線を逸らした。
「なら、よかった」
それだけの会話だった。
けれど、その瞬間の私は、胸の奥がいっぱいになるほど幸せだった。
夕日が沈んでいく。
もうすぐ、帰る時間だ。
明日も会えると分かっているのに、別れが惜しかった。
もう少しだけ、ここにいたい。
もう少しだけ、彼と話していたい。
そして私は、心の底から願ってしまった。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
その願いが、どれほど恐ろしいものだったのか。
当時の私は、知る由もなかった。
*
数日後。
アレクシスが乗馬の練習中に落馬し、怪我をしたという知らせが届いた。
私は、その報告を受けたときのことを今でも鮮明に覚えている。
手にしていた本を落とした。
侍女が何かを言っていた。
けれど、何も耳に入らなかった。
「殿下は……アレクシス様は、ご無事なのですか?」
「命に別状はございません。ですが、腕を強く打たれたそうです」
命に別状はない。
その言葉を聞いて、私はその場に座り込みそうになった。
よかった。
本当によかった。
けれど、胸を撫で下ろした次の瞬間、あの日の自分の言葉が蘇った。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
私が願ったから?
私が、幸せになりたいと思ったから?
そんなことがあるはずがない。
たまたま事故が起きただけだ。
馬が驚くことも、乗馬中に怪我をすることも、決して珍しくはない。
分かっていた。
頭では、分かっていたのだ。
それなのに。
私は、その日からアレクシスと会うことを恐れるようになった。
彼が元気になったと聞いても、以前のように笑いかけることができなかった。
彼が話しかけてくれるたび、嬉しさよりも先に恐怖が込み上げる。
また、何かが起きたら。
また、私の大切な人が傷ついたら。
そんな考えばかりが頭を巡った。
そして私は、少しずつ彼から距離を取るようになった。
最初は、ほんのわずかな変化だった。
会話を早めに切り上げる。
一緒に庭を歩く誘いを断る。
以前なら喜んで受け取っていた花を、丁寧に礼を述べてから侍女に預ける。
アレクシスは不思議そうにしていた。
「何かあったのか?」
「いいえ。何もございません」
「なら、どうして……」
「殿下。私は、もう子供ではありませんから」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
彼は言葉を失った。
その表情を見て、胸が張り裂けそうになった。
本当は、違うのだと伝えたかった。
嫌いになったわけではない。
あなたといる時間は、今でも私にとって何より大切なのだと。
けれど、言えなかった。
もしも、もう一度願ってしまったら。
あなたと一緒にいたいと、心から望んでしまったら。
今度は、腕の怪我だけでは済まないかもしれない。
私は、それが怖かった。
大切な人を失うことが。
大切な人を傷つけてしまうことが。
そして何より、私の幸福が、誰かの不幸と結びついているのではないかと疑い始めている自分が。
*
馬車の揺れに、リリアーナは我に返った。
窓の外では、見慣れた公爵邸の門が近づいていた。
あれから何年も経った。
アレクシスの怪我は治り、彼は立派な王太子になった。
それでも、私は彼に謝ることすらできずにいる。
幼い日の自分を、彼はどう思っているのだろう。
無邪気に笑っていた私のことを、今でも覚えているのだろうか。
もし、覚えているのなら。
どうか、忘れていてほしい。
あの頃の私を。
彼と一緒にいるだけで幸せだった、何も知らない私を。
「お嬢様、お屋敷に到着いたしました」
御者の声に、リリアーナは顔を上げた。
「ありがとう」
彼女は手袋を整え、背筋を伸ばした。
いつものように、表情を消す。
公爵令嬢リリアーナとして、誰にも隙を見せない顔を作る。
それが今の自分にできる、唯一のことだった。
誰かを幸せにしたいと思うことすら、怖いのなら。
せめて、誰にも近づかなければいい。
私が誰も愛さなければ。
私が誰にも、幸せになってほしいと願わなければ。
もう、誰も傷つかずに済むのかもしれない。
そう信じることだけが、私に残された小さな希望だった。
たとえその代わりに、私自身が孤独になったとしても。
私はもう、あの頃のように笑うことはできない。
そう思っていた。
――少なくとも、このときは。




