表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

9.リンデンと桃


 殿下の顔色は、週を重ねるごとにどんどん良くなっていった。

 おそらく、眠れないことや食べられないことによる不調まで「毒のせい」と考え、さらに食事も睡眠も遠ざけてしまっていたのだろう。


 殿下は聡明なお方だ。一度でも回復に向かい、過剰な疑心暗鬼が取り払われれば――あとは私が口添えせずとも、正しい判断で健やかな毎日を送ることができているご様子。



 とある日は西庭に出て、季節の移ろいを二人で楽しむこともあった。

 雨上がりの澄んだ空気の中に立つ殿下は、以前よりもずっと顔色が良い。


「殿下、紫陽花が見頃です。濡れていても、風情がありますね」

「ああ……ここは、前はデルフィニウムではなかったか」


 よく覚えていらっしゃる。

 私は記憶の隅から、ようやく細長く伸びる青を思い出して。


「たしか……そうでしたね。あちらの方がお好きでしたか?」

「……そうだな」

「では、来年の楽しみになりましたね……あとで侍女か庭師に伝えておきましょう。来年も咲くように」

「ああ」


 部屋の丸テーブルには、散歩の時に摘んだ花が飾られるようになった。

 私たちはそれを囲んで穏やかに会話を重ねたり、沈黙を楽しんだりする。



「もう一度、お茶を淹れる機会を頂きありがとうございます」

「君がまた勝手に持ってきただけだがな」

「今度こそ、美味しい紅茶を淹れてみせますわ。……茶葉は、どれがよろしいですか?」

「茶は、あまり詳しくない」

「……左様ですか……」


 どれを選べば喜んでいただけるだろう。

 少し考え込んでいると、不意に殿下が口を開いた。


「なら……君が、美味しいと思うものを淹れてくれ」

「……そうですね……どれも美味しかったので悩みますが――では、レムザン帝国のリンデンの香り茶を」


 パコ、と缶を開ける。淡い花の香りが先に零れ、辺りを漂った。

 キャディースプーンで茶葉をよそい、殿下に見えるようにする。


「正確には〝紅茶〟ではありませんの。ですが甘い花の香りが心を落ち着かせてくれる気がして……」


 紅茶ではない。と聞いたからか、青の瞳がこちらを向いた。


「最近の私のお気に入りです」

「そうか」


 茶葉を眺める殿下の瞳は少しだけ穏やかだ。少し前なら、きっと茶葉がすくみ上がらんばかりに睨みつけていただろう。そう思うと、胸の奥が満たされていく。


 今度こそ適切な時間で淹れられたお茶は、家で何度か練習した通りの色をしている。

 少し高い所からカップに注げば、香りがふわりと立ち上った。


 殿下の前にカップを差し出して、それから自分の分を一口含む。

 鼻に抜けるリンデンの香り。適切な苦みと爽やかさ。よし。ちゃんと美味しい。


 こっくりと成功を噛みしめていると、目の前でカチャ、とカップが音を立てた。

 殿下はためらうことなく口を付けたようで、もう中身が半分ほど減っている。


「悪くない」

「左様ですか」


 よかった。私はほっと胸を撫でおろした。


「……桃の香り茶を気に入っていただろう」


 殿下がカップの黄金色を眺めながら問いかける。


「はい」

「あとで届けさせる」

「! よろしいのですか」

「ああ」


 とても高価なものなのに。いいのだろうか。

 でも――妹の顔がよぎる。あの甘い匂いに、あの子はきっとすごく喜ぶだろう。


「ありがとうございます、殿下。……嬉しいです」



 数日後、執事が小包を抱えて談話室へとやって来た。

 王宮からです。という言葉にやや緊張する家族を宥めながら、金箔のまじった濃紺の封蝋を開封する。

 包みの中には、一目で東方のものと分かるような、組木の美しい木箱が入っていた。

 部屋に広がるのは、殿下の部屋で香ったのと同じ芳醇な桃の香り。


「東方の、こんな高価なものを……」


 上手くやっているようだな。そんな風に誇らしげに微笑むお父様が、私の頭を撫でようとその大きな手を伸ばす。けれど「髪が崩れるからおやめなさい」とお母様にその手は叩かれてしまった。


 穏やかな笑い声が部屋を満たす。

 部屋に広がる甘い香りを胸いっぱい吸い込みながら、私はそっと茶葉の箱を抱きしめた。


………

……


 その頃、王宮では。


『第五王子とリディア・ヴァレンフォード子爵令嬢は婚約破棄したらしい』


 そんな噂が、一部の者たちの間で静かに広がっていた。

 真偽を本人へ確かめる者はいない。

 王宮では、事実よりも思惑の方が早く広がる。


 王子の暗殺を望む者。利用したい者。リディアを排し、自らの娘を後釜へ据えたい者。


 嫉妬を糧に。

 打算を雨に。

 悪意を陽光に。


 二人が穏やかな逢瀬を重ねている、その裏で。

 悪意の蕾は、今まさに花開こうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ