9.リンデンと桃
殿下の顔色は、週を重ねるごとにどんどん良くなっていった。
おそらく、眠れないことや食べられないことによる不調まで「毒のせい」と考え、さらに食事も睡眠も遠ざけてしまっていたのだろう。
殿下は聡明なお方だ。一度でも回復に向かい、過剰な疑心暗鬼が取り払われれば――あとは私が口添えせずとも、正しい判断で健やかな毎日を送ることができているご様子。
とある日は西庭に出て、季節の移ろいを二人で楽しむこともあった。
雨上がりの澄んだ空気の中に立つ殿下は、以前よりもずっと顔色が良い。
「殿下、紫陽花が見頃です。濡れていても、風情がありますね」
「ああ……ここは、前はデルフィニウムではなかったか」
よく覚えていらっしゃる。
私は記憶の隅から、ようやく細長く伸びる青を思い出して。
「たしか……そうでしたね。あちらの方がお好きでしたか?」
「……そうだな」
「では、来年の楽しみになりましたね……あとで侍女か庭師に伝えておきましょう。来年も咲くように」
「ああ」
部屋の丸テーブルには、散歩の時に摘んだ花が飾られるようになった。
私たちはそれを囲んで穏やかに会話を重ねたり、沈黙を楽しんだりする。
「もう一度、お茶を淹れる機会を頂きありがとうございます」
「君がまた勝手に持ってきただけだがな」
「今度こそ、美味しい紅茶を淹れてみせますわ。……茶葉は、どれがよろしいですか?」
「茶は、あまり詳しくない」
「……左様ですか……」
どれを選べば喜んでいただけるだろう。
少し考え込んでいると、不意に殿下が口を開いた。
「なら……君が、美味しいと思うものを淹れてくれ」
「……そうですね……どれも美味しかったので悩みますが――では、レムザン帝国のリンデンの香り茶を」
パコ、と缶を開ける。淡い花の香りが先に零れ、辺りを漂った。
キャディースプーンで茶葉をよそい、殿下に見えるようにする。
「正確には〝紅茶〟ではありませんの。ですが甘い花の香りが心を落ち着かせてくれる気がして……」
紅茶ではない。と聞いたからか、青の瞳がこちらを向いた。
「最近の私のお気に入りです」
「そうか」
茶葉を眺める殿下の瞳は少しだけ穏やかだ。少し前なら、きっと茶葉がすくみ上がらんばかりに睨みつけていただろう。そう思うと、胸の奥が満たされていく。
今度こそ適切な時間で淹れられたお茶は、家で何度か練習した通りの色をしている。
少し高い所からカップに注げば、香りがふわりと立ち上った。
殿下の前にカップを差し出して、それから自分の分を一口含む。
鼻に抜けるリンデンの香り。適切な苦みと爽やかさ。よし。ちゃんと美味しい。
こっくりと成功を噛みしめていると、目の前でカチャ、とカップが音を立てた。
殿下はためらうことなく口を付けたようで、もう中身が半分ほど減っている。
「悪くない」
「左様ですか」
よかった。私はほっと胸を撫でおろした。
「……桃の香り茶を気に入っていただろう」
殿下がカップの黄金色を眺めながら問いかける。
「はい」
「あとで届けさせる」
「! よろしいのですか」
「ああ」
とても高価なものなのに。いいのだろうか。
でも――妹の顔がよぎる。あの甘い匂いに、あの子はきっとすごく喜ぶだろう。
「ありがとうございます、殿下。……嬉しいです」
数日後、執事が小包を抱えて談話室へとやって来た。
王宮からです。という言葉にやや緊張する家族を宥めながら、金箔のまじった濃紺の封蝋を開封する。
包みの中には、一目で東方のものと分かるような、組木の美しい木箱が入っていた。
部屋に広がるのは、殿下の部屋で香ったのと同じ芳醇な桃の香り。
「東方の、こんな高価なものを……」
上手くやっているようだな。そんな風に誇らしげに微笑むお父様が、私の頭を撫でようとその大きな手を伸ばす。けれど「髪が崩れるからおやめなさい」とお母様にその手は叩かれてしまった。
穏やかな笑い声が部屋を満たす。
部屋に広がる甘い香りを胸いっぱい吸い込みながら、私はそっと茶葉の箱を抱きしめた。
………
……
…
その頃、王宮では。
『第五王子とリディア・ヴァレンフォード子爵令嬢は婚約破棄したらしい』
そんな噂が、一部の者たちの間で静かに広がっていた。
真偽を本人へ確かめる者はいない。
王宮では、事実よりも思惑の方が早く広がる。
王子の暗殺を望む者。利用したい者。リディアを排し、自らの娘を後釜へ据えたい者。
嫉妬を糧に。
打算を雨に。
悪意を陽光に。
二人が穏やかな逢瀬を重ねている、その裏で。
悪意の蕾は、今まさに花開こうとしていた。




