8.勿忘草
「おはようございます、アレクシス殿下」
「ああ」
朝一番。王宮の書記官が机の上へ新しい書類の束を置き、昨夜までの分を抱えて部屋を出ていった。
アレクシスは封蝋を切り、険しい顔で内容を確認する。
やがてさらさらとサインをして、『可』の印を押した。
『済』として机の端に置いて、次の書類を手に取る。
一瞥しただけで前回との数字の矛盾点に気が付き、静かに『不可』の判を押す。
ふと、前方の丸テーブルの上の小さな花瓶――午前の陽気に照らされた勿忘草が視野の端を掠めた。
二枚ほど花弁が落ちている。しかし、一週間が過ぎてもまだそこに空色はあった。
兄である第三王子に直接頼まれた代筆作業中に、侍女が紅茶を替えに来る。
アレクシスは、それに口を付けることをまだ恐れていた。けれどそれが桃の香り茶であるならば、しばしの葛藤の後に一口だけ飲むこともあった。
侍女は軽い掃除の果てに、花弁を散らかす勿忘草を回収しようと手を伸ばす。
「それは、……そのままでいい」
しかしその瞬間。作業に没頭していたアレクシスに短く止められてしまった。
「承知いたしました」
昼時になり、侍女が昼食を持ってきた。丸テーブルに並べられた、柔らかい食材で構成されたいつもの献立。
真正面の空の椅子と勿忘草を眺めながら、ハムとミルク粥を食べた。
仕事を再開したアレクシスは眠気を忘れるほど仕事に没頭していく。
『可』『可』『不可』『差し戻し』『不可』――。
ふと、前方の丸テーブルの勿忘草が影に沈んでいることに気が付いた。
いつの間にか、ずいぶん時間が経ったようだった。
なのに、彼女が来ていないことに、アレクシスはようやく思い至る。
……なにか、トラブルでもあっただろうか。
使者に手紙でも持たせて道を逆走させて、手助けの準備をした方がいいだろうか。
アレクシスは白紙の紙を引き抜いて、ペンを持つ。
『リディア・ヴァレンフォード子爵令嬢』
――先日は問題なかったか。
――道中、気を付けて。
――何かあれば知らせろ。
どれだけ睨みつけても動じず、むしろ「仕方がありませんね」と言いたげに近づいてきた彼女。
好きなものを前にした時だけ、ほんの少し言葉が増えるところ。
花を眺める時の、真剣な瞳――。
顎に手を当て思案して……そして次にアレクシスが手紙を見た時。
『リディア・ヴァレンフォード子爵令嬢、貴殿との婚約をここに破棄する。』
「……、……」
思わず、己の右手を見た。
ペンを置き、頭を抱える。
「信じられない……」
大丈夫か、の一言さえ書けないなど。人として失格過ぎるではないか。
そのとき。
コンコン、とノック音がして、アレクシスは顔を上げる。
「アレクシス・エルヴィア第五王子殿下。リディア・ヴァレンフォードが参りました」
………
……
…
飴色の扉が開く。
いつもより少しだけ早い出迎えに、やはりお待たせしてしまったのだと思った。
「お待たせして申し訳ありません」
「ああ」
「馬車の車輪が傷んでしまって。交換を待っていたら遅れてしまいました」
「……そうか」
私はお待たせした謝罪としてしっかりと一礼する。
謝罪を受け取ってくださった殿下のご機嫌は、そこまで悪くない様子。
いつもの癖で丸テーブルを見た。勿忘草がぽつんと置かれている。
「……昼食は、」
「食べた。その、ちゃんと……食べた」
「左様ですか」
その言葉に言い訳の響きは無かった。
確かに、以前よりも頬に肌色が戻ってきている。
きっとこの一週間も努力なさったのだろう。
私たちが席に着くと同時に、侍女がお茶とお菓子を持ってきた。
爽やかで甘い香り――林檎の紅茶。ここまで香りが強いということは、淹れ方だけではなく、きっと茶葉も新鮮で良いものだからだろう。
「怪我はなかったか」
「ええ。出発前のことでしたので」
「そうか」
林檎の紅茶に添えられたのは小さなフィナンシェ。
しっとりとした生地から溢れるバターの香りに、思わず目を細めてしまう。
「……」
「……」
何か、お話を振った方が良いだろうか。と一度だけ考える。
けれど少しだけ開いた窓から入り込んだそよ風が、私の頬と殿下の前髪を揺らして――私たちの沈黙を、優しく許してくれている気がした。
フィナンシェをもう一口。……美味しい。
だから私も、この静謐を楽しむことに決める。
もぐもぐと焼き菓子を楽しんでいると、ふと、殿下の視線を感じて顔を上げた。
交錯する青の瞳に、どうしましたか。と思いを込めて微笑む。
けれど殿下は、瞬き一つ。なんでもないと言わんばかりに、顔を顰めながらフィナンシェの端を千切って口に入れる。
……いつの間にか、日がずいぶん傾いていた。
私が椅子から立ちあがろうとしたとき、外からもコンコン、とノックの音がする。
「リディア様」
「ええ」
侍女の声。扉越しに答えて、殿下へと向き直った。
「では、また一週間後に参ります。失礼いたします、殿下」
「ああ、気を付けて」
橙色の光が馬車の中に差し込んでいる。
来るまで時間がかかったからだろうか。速度を出しているわけでもないのに、帰り道は短く感じた。
流れる景色を眺めながら……私はぼんやりと、次に訪れる日のことを考える。
――あと、七日。




