7.西庭
「昨夜は、一度も目覚めなかった」
「まぁ、それは良かったです」
毎晩、一度は目が覚めていたんだ。と驚きつつも微笑む。
気に入ったと使用人が分かってくれたのだろう。昨日と同じ桃の香り茶を一口含んだ。鼻に抜ける香りさえ甘くて美味しい。
「外に、……庭に出る夢を、みた」
「明るい良い夢ですね……正夢にいたしますか? 天気もいいですし」
首をかしげるが、本気ではなかった。
もうずいぶん昔に思う、婚約破棄通知が届き始めた頃。何度か「散歩でもしませんか」と声を掛けたことがあった。しかし答えはいずれも「いやだ」「行かない」あるいは顔を顰めて無視。
だから、今回も軽く受け流し、次に繋ぐための定型文だった。断られた後にする雑談だって、もう喉元まで来ている。
「ああ、そうだな」
「左様ですか。またいつか――ええっ!」
遅れて気が付いた同意に、はしたなくも目を見開いてしまった。自分から誘った癖に「本当に大丈夫ですか」と視線で問いかけてしまう。
すると殿下から「ごもっとも」と、そう言いたげな視線が返ってきた。
俯き――意を決したように、はぁ。とため息をついた彼は、ゆっくりと立ちあがって。
「……少し、待っていてくれるか」
「っ!」
扉の方へと歩いていく。
誰かを迎え入れるために開いていた扉を、出ていくために使うのは――殿下にとって四年ぶり。
「殿下……」
歩いて行った勢いのまま、右手が動く。ドアノブが掴まれるけれど……そこから先、殿下は動けない様子だった。こちらからは、その後ろ姿だけが見えている。
紅茶の湯気が消えた頃。ふとこちらを振り返った殿下は、執務机の奥の窓を眩しそうに眺め、その手前にいる私を見つめてきた。
私は、何も言えずに顔を傾け、曖昧に微笑んでいたと思う。
けれどひたすらに願うのは、無理をしないでほしい。ということだけ。
申し訳なくもあった。焚きつけたのは私だ。
そしてまた、ドアに向き直る。
一度だけ、ごん。と殿下がドアに頭を付ける音がした。
そして、ため息と葛藤と決意の果てに――ついにカチャリ、とドアが音を立てる。
窓の方から扉へ。すっと風が通り抜けていった。
「さあ、行こうか」
………
……
…
殿下の部屋の、丁度真下にある西庭。
人けの無いそこは小さくとも左右対称に生垣と花壇が並び、様々な色形の花がそよ風に揺られていた。
「綺麗です。……見てください、殿下、ライラックが満開ですわ」
「ああ、そういうのか、この花は……」
「我が家の庭にもありますが、なかなかここまで大きくはなりません」
「そうか」
日傘をさして殿下の隣を歩く。いつの間にか、私はエスコートされていた。
殿下とこうやって並んで歩くのは初めてのはずなのに、いつの間にか殿下の腕が差し出されていて、私も自然と手を添えていたのだ。
その腕は、やはり少し骨ばっていて細い。
「刺繍がしたいか」
ぽつりとした呟きに、思わず殿下を見上げてしまう。
「ぇ。……は、はい。花を見ていると、どうしても」
前方を向いたまま、眩しそうに細くなる青の瞳。
「例えば――あちらのクロッカスの、あの花弁の濃淡を表現するためにどんな糸を使おうか。と、興味があります」
「そうか」
「殿下から頂いたあの箱、刺繍糸も、ハサミもぴったりと収まって……だから、次は何を刺そうかと、考えるだけで楽しいのです」
「次は、何を刺すんだ?」
「え、えと……そうですね。クロッカスは、興味があるのですが、大きく表現しないと綺麗ではありませんし……」
大きなモチーフが許される、花瓶の下敷きなどは最近刺し終えてしまった。
だから次は、手袋の端に小さな花でも散りばめようと思っていたのだけれど……そんなことを説明されても、きっと面白くはない。
「あ」
前方のレンガ作りの花壇に、風に手折られた勿忘草が落ちていた。それを拾い上げて、殿下によく見えるように少し掲げる。
「殿下、勿忘草です」
すっと伸びた茎の先に、青い小花が五つ。小さいながらも見栄えが良くて、可愛らしい。
差し出したわけではないけれど、殿下の手が伸びてきた。
そっとその小さな花を受け取って、くる、くる。と回す。
「次のモチーフはこれにいたします。手袋の端に密集しているような……規則的でも良いですが……ドロンワークと組み合わせてもいいですね」
「青い糸がいるだろう。足りているのか」
「ええ。ご心配なく。母がレムザン帝国の出身ですので、糸は融通してもらえるのです」
「そうか。そうだったな」
「はい」
てく、てく。とゆっくり歩を進め、あまり花の名前をご存じない殿下に、紹介できる範囲で名前を伝えていく。
しばらくそうしていると、ふと。殿下の足が止まった。
彼の瞳の先に顔を向けると、遠くに人影が見える。装いと、位置から見て庭師だろう。こちらの状況を慮り、近づくことなく会釈する。私も、それに応えて傘を揺らした。
しかし。
「殿下……?」
立ち止まったままの殿下の横顔を見上げると――その唇の色が薄くなっている。
「殿下、日差しが強くなってまいりましたね」
わずかに震える腕に添えた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「私、喉が渇きました。戻りましょう」
「ああ……」
………
……
…
部屋に戻ると、すぐに侍女がレモネードを持ってきてくれた。
柄にもなく、たくさん喋りすぎてしまった。喉の渇きに誘われるまま、爽やかなそれに口を付ける。
殿下は椅子に座るなりはしたなく丸テーブルに突っ伏して、ぐったりと肩を落とす。
「疲れた……」
「当然ですわ。四年ぶりですもの……」
「……」
「横になりますか」
「……」
それから殿下は、黙ってしまった。
相当お疲れの様子だけど……寝てしまわれたらどうしよう……。
飲みかけのレモネードの氷が溶けて、からりと音を立てる。
「……君も、毎日来る必要はない」
疲れたため息。絞り出した言葉には、いつもの棘のある言い方ではなかった。
「食事も、夜、寝ることも……少しずつ、……俺一人でちゃんと、する」
突っ伏していた殿下は、いつの間にか起き上がっていた。
決意表明のようなそれを、信じられないわけではない。けれど――少しだけ胸を絞られるような気がして。
「……ですが、」
「外に出れたのだから、もう、大丈夫だ」
「しかし、……心配です」
両手を握りしめた。漠然と、まだ足りないのに。と思う。
「……毎日は、必要ない」
「……三日に一度、」
「多い」
「では、五日……?」
「一週間だ」
黒の睫毛が伏せられたあと、アイスブルーがこちらを見据える。
「一週間に、一度でいい」
「……」
穏やかなお顔。確かに、数日前よりは――。
……殿下が、そうおっしゃるなら。
「……では、一週間後に、また参上いたします」




