6.黒木の小箱
起きた時から数時間は迷っていた。
馬車の中でもまだ迷っていた。
けれど、それでも頭の中にずっと張り付いて離れなかったのだ。
だって、一昨日と昨日で劇的に改善するとは思えない。
ああやって急かさねば食べれず、食後の眠気すら毒のせいと思うほど――満足に眠れない状況が、今日、いきなり良くなるとは到底思えなかった。
だから私は、今日も殿下のもとへ行く。
………
……
…
「ああ、そろそろ来ると思っていた」
「え」
「なんだ、入らないのか」
「あ、いえ、」
ドアをノックすれば、殿下はすんなり私を迎え入れた。
丸テーブルの上には、昨日と同じ軽食――白パン、ハム、チーズとリンゴ。それから、湯気を立てるミルク粥。
「ほら、見ろ。ちゃんと……今から食べるから、もう毒味のような危険なことはするな。君の身に何かあったら、ヴァレンフォード子爵に顔向けできなくなるだろう。それに……」
「……?」
「いや、とにかく、毒味は必要ない」
「……承知、いたしました」
確かに、ここで私が毒で倒れるなどすれば、とても面倒なことになる。その責任や後処理に走り回るのは父になるだろう。
……しかし、だからと言って、代わりに殿下が毒に倒れればよいという話でもないような……。
と、その時。侍女がお茶を持ってきた。
ふわりと漂うのは、甘く柔らかな桃の香り。
これは、まさか。東方から輸入しているという、珍しい香り茶だろうか?
「……東方の香り茶ですか? 流石ですわ、殿下」
「? 俺は知らない。そうなのか」
「はい、リディア様。ご名答です」
「一昨日、輸入茶が流行っているとお話ししたではありませんか。かなり上等なものですよ。……いい香りです」
……そうして、美味しいお茶を飲みながら、殿下の昼飯を眺める。という奇妙な時間が始まった。
私が一杯目の紅茶を飲み終わった頃。殿下はようやく一口目のリンゴを齧り。
追加で出されたチーズの焼き菓子をゆっくり味わっている間も、殿下の食事はほとんど進まない。
結局、スープカップのミルク粥に匙を伸ばしたのは一度きりだった。
ちゃんと食べる、とおっしゃった割に、昨日ほどは召し上がっていない気がするけれど……それでも、もぐもぐと頬が動くたび、ごくり。と喉仏が上下するたび、わたしは肩の力が抜けるような、温かな気分になっていった。
「昨日は……」
私が焼き菓子を食べ終えた頃。殿下が「もういい」とおっしゃったので、紅茶以外のものはすべて下げられていった。
殿下は食後の紅茶に口を付けることなく、机を見つめながら呟く。
「昨日は、世話をかけた」
「……いえ、当然のことです。お気になさらず」
そこでふと立ち上がった殿下は、執務机から小箱を持ってきて、それを私に手渡す。
「これはその礼だ」
艶のある黒木で出来た小箱。
蓋には淡い虹色の光沢を放つ装飾がされていた。傾きによって、じわりと色が変わる。
開けて確認しろ。という視線の意図の通りに、蓋を開けた。
そこには、昨日殿下に預けた髪飾りが入っている。
「あ、――ありがとうございます」
「箱は使える。裏も」
わあ。便利ですね。と喉元まで出かかった言葉が、口から出た時には違う言葉になっていた。
上蓋の裏には小さな布張りの部分があり、小さな仕切りと引き出しまでついている。
「私、言ったことありましたか? 刺繍を、すること……」
「見ればわかるだろう。その指は、針を持つ人間の指だ」
え。と思って、咄嗟に両手を見た。けれど、針で突いた痕も、指ぬきの痕さえついていない。
刺繍は、やりすぎると令嬢に相応しくない労働者の手になる。分かっているから、気を使ってコールドクリームで手入れをしていたのに……。
でも、暴かれたそれを不快には思わない。
自覚したことの無い所を、そっとくすぐられたかのような、むず痒い感覚。
「ありがとうございます。殿下」
と、そこで視界が晴れた。きちんと昼食を食べ、昨日よりは元気そうな殿下。
「今日も、お昼寝なさいますか」
「いや、今日はしない。仕事が溜まっている」
少しでも眠って欲しいけれど、お仕事なら仕方がない。
食べることも眠ることも今すぐは必要なくて……つまり……私がここにいる理由がなくなってしまった。
「では、今日のところはお暇させていただきますわ。早く、この箱を刺繍糸で一杯にしたいのです」
「ああ。そうするといい」
肺の奥から、自然と微笑みが漏れていく。
幼い頃に必死に直した顔を傾ける癖が出てしまいそう。
「それでは、失礼いたします。殿下」
閉じるドアの奥。殿下はもう執務机に向かっていた。
「ああ、気を付けて」




