5.おやすみなさい
ガタン、と殿下の膝がテーブルを打った。
「――な、……はッ?」
驚愕に見開かれ、充血した瞳が、トレイの上のパン粥へ落ちる。
それから私を見て、ゆっくりと細くなった。
「殿下……? い、いかがなさいましたか」
「……不自然に、眠い。君はなんともないのか」
「とくには……」
殿下は真剣に手を握ったり開いたりしている。
私も今一度、自分の体に異変がないか深呼吸をしながら確認して……けれど何も異常はない。
「それは……殿下。ただ眠いだけですよ」
「は? ……いや……しかし、こんなことで……」
「一度横になれば、解決すると思いますわ」
「いや、そんな、だが……そうか……?」
「幼いときは、お昼寝などなさったでしょう」
「……そう、かもしれんな……」
眉間に皺を寄せたまま、瞬きを繰り返すアイスブルー。
「お休みになられますか?」
「……、……少しだけ」
席を立ち、ふらつく足取りで左側にあるベッドへ。
テーブルを片付け終えてから覗き込むと、殿下は糸が切れたみたいにベッドに崩れ落ちていた。
「君……もういい、……帰ってくれ……」
枕に顔を埋めながら、殿下はぼそぼそと呟く。
横になってから、私を見送っていないことに気が付いたみたいに。
私は、ベッドから一歩分離れた所に椅子を持ってきて。
「せっかくですから、お眠りになるまで傍におりますよ」
「……、」
それからしばらく。殿下は何も言わなかったけれど、呼吸が深くなると決まって次の瞬間には体を震わせて、起きてしまうようだった。
私がいる以上、安心して眠ることなどできないのだろうか。
しかしお昼の、こんな時間に眠る殿下を一人きりにするなんて――流石に無防備すぎて、傍から離れることは出来ない。
「殿下……怖いですか? 私は丸腰ですよ。コルセットすら……つけておりません」
また起きてしまってため息をつく殿下に声を掛ける。
彼は少し唸ってから、私の方に顔を向けて。
「そんなもの……その髪飾りで、ここ、一突きで、それで終わりだ……」
自身の首を指さす。忌々しそうな声。確かに、言われてみれば女性の髪飾りは細長いし、恐れるのも分かる気がする。
「……そうですね。……では、殿下が安心できるようにいたしましょう」
私は頭の後ろに刺さった髪飾りとコームを引き抜いた。
髪がほどけて、バサリと背中を打つ。
またうとうととしかけている殿下に近づいて跪き、その手をそっと取った。
「これは殿下がお持ちになって」
「っ、」
拳を開かせて、その中に押し付ける。そしてまたきつく握らせた。殿下なら大丈夫だと思うけれど、お母様から譲り受けたお気に入りなのだ。落とされると困る。
安心なさったかな。と顔を上げると、その顔面は驚愕に見開かれていた。
「なんて、格好を……ッ」
コームを抜いたので、本来なら整えておくべき髪は、はしたなく乱れている。
確かに恥ずかしいけれど――安心には代えがたいし、婚約者の前だからギリギリ許されるはず。
「っ、さぁさぁ。お休みなさいませ、殿下」
私は少しだけ大きな声を出して、シーツを殿下の体にかける。そしてまた、離れた椅子に腰かけた。
「しかしな……きみ……」
殿下は髪飾りを握り締めたまま何度か呟いたけれど、乱れ髪の私を見ないように目を瞑っているうちに、きちんと眠りに落ちたようだった――。
ほんの僅か、窓を開ける。
入ってきた風は日光で程よく温められて、深呼吸すると心地いい。
使用人が動くぱたぱたという音が小さく響く。
隣からは、殿下の寝息。
その胸元が規則正しく上下するたびに、何故かとても安心している自分がいた。
いつも顰められている眉が僅かに緩んで、その穏やかな寝顔のおかげか血色も良く見える。
空中を漂う埃の粒が日差しを受けてきらきらと光っていた。
それをぼんやり眺めるうちに口角が上がり、ふふ。と息が零れていく。
殿下の目が覚めたのは、それから二時間後のこと。
「、ゔ……」
「ぁ……おはようございます、殿下」
「……? ん゛」
ほんの僅か襟元が着崩れていて、寝癖が付いている。その艶めかしさに、思い出したかのように少し緊張した。
起きられたのなら、私はもう必要ない。そう思って席を立つ。
「それでは、私は失礼いたしますね」
「? ぁぁ、ごくろう……」
開いているのか分からない瞳。寝起きの少し高い声。
――可愛らしいな。と少しだけ思った。
急ぐように退散した、その帰り道の途中で髪が垂れてきて気が付く。
「あ、」
大事な髪飾りを預けたままだった。




