10.夕闇
ガラガラと、わずかに急ぐ車輪の音が響いていた。
日は傾き、もうそろそろ遠くの山に触れようとしている。
――長居しすぎた。
殿下の部屋の居心地がよすぎて、ついうとうとしてしまったのだ。
彼は私を起こすこともなく仕事を続けていて――結局、侍女に叩き起こされて慌てて帰る羽目になって。
「眠そうだったな」
「眠そうとお思いでしたら、その時に起こしてくださいまし!」
相変わらず事実しか口にしない殿下へ叫ぶように返す。
「はぁ……では殿下、また来週参ります」
「ああ」
「失礼いたします」
「気を付けて」
一礼した私は、それから慌てて王宮を飛び出したのだ……。
婚約者の元に行っていると分かっていても、日が沈んでしまえば家族は心配するだろう。
お母様は恐ろしい人だ。久々にこってりと叱られる可能性だって……。
と、その時。
ドド、ドド、と後ろからやけに近い馬の音がして、私の馬車と並走する。
前のめりの姿勢。ずいぶん急いでいる。男は――使者は馬車の御者に声を掛け、しばらくして馬車が停車した。
「ヴァレンフォード嬢ッ、アレクシス殿下から急ぎの知らせが」
夕方で見えにくいけれど、使者はいつも離宮で見かける使用人に見える。
その手が掲げるのは、青の封蝋で閉じられた書状。
「殿下より、直接お渡しするよう申しつかっております」
相当急ぎなのだろうか。さっき別れたばかりで、一体何の知らせだろう。
焦っている様子の使用人に心がザワザワする。
小窓は人の手がようやく通るほどしか開かない。
「ええ、受け取ります」
だから扉を開け、書状を受け取ろうと手を伸ばす。
「今確認しますから、少しそこでお待ち――きゃあッ⁉」
バン、と扉を外から勢いよくこじ開けられた。
黒い影が入ってきて、そのまま押し倒される。
「動くなッ!!」
馬乗りで床に押さえつけられて、口も覆われた。
バタンッ、と扉が閉まる音。目の前でギラリと光るのは、小さくても十分に死の匂いを纏った小刀。
「――ッ、」
横目で前方の小窓を見た。御者と目が合う。彼も脅されている。
視線で「従って」と伝える。その隙に後ろ手を荒々しく縛られた。
御者台でバシリ、と鞭をふるう音がして、さっきよりも速いスピードで馬車が走り出す。
「騒いだら殺す」
首に当てられたナイフの冷たさに、一気に怖くなって呼吸が乱れた。
床越しに聞く車輪の音。縛られた手首が痛い。
山肌を撫でていた夕日が、そっと吸い込まれていった。
同時に、黒い布で目を覆われる。
その暗闇の中で、私は――。
………
……
…
第三王子アドリアンは、柔らかな笑みを浮かべながら廊下を歩いていた。
使用人たちは会釈をしながら、自然と壁際へ退く。
いつも穏やかな顔をしている男だが、その表情のまま政敵を潰すことで有名だった。
彼はコンコン、と扉を軽くノックして、部屋の主が応答する前にドアノブを捻る。
「アレクシス、午前の決算書だけど、」
堂々とアレクシスの机の前までやってきて、笑顔のまま問いかけた。
「どうして認可しなかったのか教えて。あと、頼んでいた代筆は済んでる?」
「兄さん……ノックをしたからって、部屋に入っていいわけじゃないんですが……」
部屋の主はため息をついて、けれど兄の要求通りに書類を整理し、提出できるようにする。
「前半期と比べて数字に不自然な点があります。意図的に隠したようにも見えました」
「なるほどね。横領か、脱税か……」
「分かりません。担当者が書き間違えただけの可能性もあります」
アレクシスは頑なに視線を合わせない。
まだ、自分の憶測だけで人を裁くことが怖いのだ。
「ふーん。まぁいいよ。こっちで調査するから」
「それから、代筆は済んでいます」
「ああ、ありがとう。――うん。いいね、やはりお前の方が字も綺麗だし、」
「失礼します!」
部屋の入り口から声が響く。
アレクシスは眉間を押さえた。兄がまた扉を閉め忘れたらしい。
けれど、
「ヴァレンフォード家より急報です。リディア嬢がまだご帰宅なさっておりません」
その言葉に、ハッと顔を上げた。
「リディア嬢、お前の婚約者だね。今日、ここにいたのかい?」
「はい、つい――三時間前まで……」
アドリアンは顎に手を当てた。アレクシスは静かに立ちあがる。
「まだ帰りが遅いだけじゃないの?」
「いいえ……」
俯きの視線は、兄の奥。あの丸テーブルに注がれていた。
「何かあった」
「え? ア――アレクシスッ?!」
部屋を飛び出し遠ざかる弟の背を、アドリアンは呆然と目で追った。
――あの弟が、自ら部屋を飛び出すとは。




