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11.誘拐


 アレクシスは何も持たずに王城を飛び出していた。

 最近は庭に出ることが増えたとはいえ、王城の門の外へ出るなど実に五年ぶりのこと。


 しかしアレクシスは迷うことなく、婚約者が通ったであろう帰り道を進んだ。日常的に目にする王都の区画図は、隅までしっかり頭に入っている。

 帰路を急ぎ、すれ違う人々さえ目に入らない。


 事故か、誘拐か、それともどこかでお人よしを発揮しているだけなのか。


 事故ならもっと騒ぎになっている。

 誰かを助けているにしたって、家族のことを第一に考える彼女が、連絡も無しにとは考えられない。


 ならば――誘拐だろうか。

 馬車ごととは、用意周到だ。もしかしたら、今ごろ……。


「……、」


 胸の奥に石が積まれるような気持ちに、アレクシスは顔を顰めた。


 足を止め、建物を見上げる。辺りは街灯まじりの紺色に包まれていた。


 こくこくと無防備に眠りかけて、そののちに赤い目尻で騒いでいた姿がよぎる。

 この辺りを彼女が通った時、夕日は沈むかどうかといった所だろう。


 人通りは、もう少し奥の道から急に途絶えている。

 さらに夕方なら、張り出した軒が影を濃くしているはずだ。


 ――もし自分が誘拐を狙うなら、ここを曲がった後に馬車を止める……。

 そして馬車を乗っ取り、そのまま王都を出るだろう――。


 アレクシスは遠くでかがり火を焚いている城壁、東の大門を見た。

 ここから一刻も早く王都外に出たいなら、あの大門を通る。

 だからここで帰り道を外れて、曲がる……。


 走っては立ち止まり、辺りを見回し、また走る。

 まだ事故の可能性がある。たまたま連絡ができていない可能性だってある。しかし、アレクシスには予感があった。

 毒と知らず毒を飲み下し、体に反応が出る前の――あの嫌な確信。


 とにかく大門まで行って、出入り記録を一度確認するべきだ。そう結論を出したアレクシスの視界の端に、ふと白いものが掠める。


 道の端に転がる、薄汚い布。月明かりを受けてぼんやりと光っている――上等な生地。

 道中でも何度か見かけたような、ただの布切れ……。


 しかし……なぜか、目が離せなかった。

 拾い上げて、叩く。砂埃に塗れていたそれは――手袋。


 手の甲にヴァレンフォード家の紋章があしらわれた、彼女の御者の手袋だった。



「アレクシス」

「……兄さん」


 前方から月明かりを背負った兄、アドリアンがやって来た。


「探したよ。いきなり飛び出して行くからさ」


 いつも通りな兄が少しだけわずらわしい。過去、自分が斬りつけられた時でさえこんな調子だった。そういう人だと分かっているのに、今この時だけは、その笑顔を受け流せない。


「東門は確認済みだよ」


 しかし、怒りはその仕事の速さに吹き飛んだ。


「お前の婚約者の馬車は、門を通過した記録が残っていた」


 握り締める手袋を見て、アドリアンは呟く。


「……誘拐か」


 言われて、アレクシスはそれを見せた。

 家紋が入ったそれを、使用人は易々と捨てたりはしない。

 襲われた御者が、異常に気づいてほしくて落として行ったのだろう。


「兵はもう外へ出してある。だから一度王城へ戻ろう。アレクシス」

「いえ……俺は、もう少し辺りを調べます」


 アドリアンは、アレクシスと同じ青の瞳をわずかに見開いた。


「――今日のお前には驚かされっぱなしだよ……そっか、」


 こんな状況で少しだけ口元を緩め、それから遠くへ視線を流した。


「いいよ。お前の好きに動いて」

「はい」

「ただし城壁の外には出ないこと」


 分かったね。そう言ってアレクシスの肩を叩き、そのまま来た時と変わらない足取りで去っていった。


………

……


 両手は手枷で拘束されていた。目の前には、木製の古い机。

 腰は椅子ごと鎖で縛り上げられ、身じろぎすることさえできない。


「……、」

「こちらに署名していただければ、すぐに帰れますよ」


 小さなテーブルの対面で、男は穏やかに言う。


 誘拐されて目隠しを外されてから、何度も同じことが繰り返されていた。


 机の上には紙の束。

 私は、定期的に目の前に広げられるそれに視線を落とす。


『私、リディア・ヴァレンフォードは、ここに自らの意思をもって、アレクシス・エルヴィア第五王子殿下との婚約を辞退することを願い出ます。


 本件は何者からも強要されたものではなく、私自身が熟慮の末に決断したものです。


 婚約辞退に伴う一切の責任は私個人が負うものとし、王家並びにヴァレンフォード家へ責任を問うことはいたしません。


 また、本書への署名をもって、私は以後本件について異議を申し立てず――』


 その先も細かな文言が隙間なく続いていた。

 婚約の辞退。

 自由意思。

 王家への謝罪。

 責任は一切問わない。


 同じ意味の言葉ばかりが、何枚にもわたって並んでいる。


「……お断りします」

「理由を伺っても?」


 毎回、判を押したように同じ言葉で返ってくる。

 それが――とても怖かった。


 私は恐怖を悟られないように、一度だけ息を整えてから。


「誘拐して無理やり書かせる時点で、まともな書類ではありません」


 と、毎回同じように答える。


「……」

「……」


 訪れる静寂。


 たっぷりと沈黙を引き延ばしたあと、男は少し笑った。

 こちらを嘲笑う角度の唇。


「なるほど」


 頷きながら、書類を手元に引き寄せる。


「では、また後ほど」

「……」


 男は微笑んだまま退室した。

 ――ばたん、と扉が閉まる。

 その瞬間私は思わず大きく息を吐いた。


 手首を繋ぐ鎖が、微かに音を立てる。


「……ぅ……」


 足先の感覚が鈍い。

 同じ姿勢で固まった身体が重く、腰に食い込んだ鎖が痛かった。


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