2.クッキー
殿下がやっと毒味済クッキーの欠片をひと齧りした時。私はまたクッキーに手を伸ばしていた。
流石王宮御用達のスイーツ。小麦から砂糖、卵、バターまで、材料の全てが良いものと分かる。
私はこれを味わうために、こうやってここに来ていると言っても過言ではない。
「美味しいですね」
「……味など、もう分からない」
対する殿下は、まさに苦虫を噛み潰したよう。
私が――ギリギリ礼を失しない程度に――四枚目のクッキーを素早く手元に確保した瞬間。見逃すわけもなくその仕草を眺めていた殿下が、まるで恨み言のように呟いた。
「分かっているのか」
答えようとして、やめる。
口の中には、まだクッキーがあったから。
「俺と関わると――リディア・ヴァレンフォード。お前もいつか死ぬことになる」
「……」
痛々しいまでに細くなるアイスブルー。
その瞳は、ここではないどこかを見つめているようだった。
………
……
…
ちょうど、私との婚約が決まった四年前。
始まりは、一つの囁きだった。
とある会議で、殿下は隣に座る第三王子へ何気なく口にした。
「あの大臣、今日は体調がすぐれないのだろうか」
ただ、それだけ。
けれど、その些細な気付きから始まった調査は、やがて大きな謀反と複数の暗殺計画を明るみに出した。
それ以来。
――アレクシス殿下は何か知っている。
――なぜ、誰も気付かなかったことに気付ける?
――一体、何を見ている?
殿下にとっては些細な違和感の指摘、ただの雑談だった。
けれど、その違和感が誰かの罪を暴くたび、人々は彼を恐れるようになった。
そして恐れは、やがて悪意へ変わっていく。
首元を狙うナイフ。
食事に混ぜられた毒。
身近な者の裏切り。
眠れず、食べられず。
少しずつ追い詰められていく中で、殿下の中には一つの思い込みだけが残った。
『俺に関わった人は、誰であろうと全員死ぬ』
そう信じてしまうのも、無理はないと思う。
………
……
…
「本当に、理解しているのか?」
「……恐ろしいな。とは思います」
これは私のまごうことのない本音だった。
「ならば、なぜ……」
しかし殿下は納得しなかったよう。眉間の皺はそのままに、ため息みたいに声を出す。
「こちらにも引けない理由がありますし……」
言い訳を考えている最中に気が付く。彼の手の中のクッキーの欠片が消えていた。
食べられた。私は少しだけ安心する。
「クッキー、どうやら毒は入っていないようですよ。もうひとついかがですか?」
私の手元に一つ。殿下にもお一つ。と伸ばした手は、しかし彼が両手を机の下に下げたことで拒否されてしまう。
「いやだ。味がしない」
「味がしなくとも、何かお腹に入れなくては。殿下、幽霊のようですわよ」
「……、」
黒い髪と青い瞳も相まって、殿下は全体的に儚い印象になっている。
こうやって訪ねるたびに、存在ごと薄くなっていくようで……いたたまれない。
「……」
「……」
……婚約者と言えどこの国の王子様に、失礼が過ぎただろうか。
数秒の無音に耐えかね、私が謝罪に口を開くと同時。
チリリン、と殿下は鈴を鳴らした。
十秒ほどで侍女が来る。お呼びでしょうか。そう一礼した彼女に、殿下は立ち上がって距離を取った。
「ヴァレンフォード嬢がお帰りだ。それから、このクッキーはまだあるか? あるだけ包んで持たせてやってくれ」
「かしこまりました」
――え。
お怒りなのだろうか? けれど何か頂くなんて……こんなことは初めてで、私は思わず窓辺の殿下を見つめてしまう。
しかし彼はもう興味を失ったみたいに、こちらを一切見ない。私も帰ってほしいという意思を尊重して、それ以上は何も言えなかった。
「それでは殿下、失礼いたします」
ドレスの端を持ち、膝を曲げる。
挨拶は返ってこなかった。
『あるだけ』
と、殿下が言ったせいで――仰ってくれたおかげで、バスケット一杯のクッキーを持って帰ることになった。馬車で来ているし、美味しかったから嬉しいけれど……せっかく食べられそうな物だったのに、いいのだろうか。と思う。
「ただいま戻りました」
「ねえさま! おかえりなさいませ! ――あ!まって」
談話室で声を掛けると、妹のクララが駆けてきた。いつもの流れで抱き着こうとするのを自分で止めるから、私も何事かと思って硬直する。
小さな彼女はその場でぎこちなく右足を後ろに回し、スカートの端を持つ。
そしてやや前のめりになりながら、ガックン、と膝を曲げた。
「おかえりなさいませ、お姉様」
ぎこちない、けれど一生懸命練習したと分かるカーテシー。
胸が温かくなって、わずかに口角が上がった。
「ただいま、頑張ってるわねクララ、もう一度見せてくれる?」
「うん!」
「視線はあそこ、花瓶を見ながら。いい?ゆっくり膝を曲げて……ゆっくり戻す――ええ、良くなった」
「ぅ……ゆっくりするの、足がふるえる……」
「そうね、こればっかりは、繰り返しね」
「……ねぇ、ねえさま、この匂いはなに?」
「ああ、アレクシス殿下が、クッキーを、」
奥から革靴の音が響く。
ゆったりとした歩幅、少し踵を擦る癖。見なくとも誰か分かった。
「リディア、戻ったか。アレクシス殿下はお変わりなかったか」
お父様が顔を覗かせた。私たちと、使用人が持っている見慣れないバスケットを交互に見ながら歩み寄る。
大きなバスケットだけど、何を持って帰ってきたのだ? という顔。
「はい、お元気そうでした。お菓子を沢山頂いてしまいました」
「……おお、――はは、多いな」
中身を覗いたお父様は嬉しそうに苦笑した。
「お前を可愛がっている証拠だろうよ」
ぴょこんとクララが跳ねていく。
「クララもクッキー、食べたい!」
「待ちなさい、夕食が入らないとお母様に叱られる。こっそり、一枚ずつだ」
「もうバレてますわよ。そうやってコソコソするから、後で叱られるのではなくて? ――リディア、おかえりなさい」
いつの間にか背後にいたお母様は、唇に指を当てて笑う二人をひと睨みした後、私を労うかのように優しく微笑む。
「ただいま戻りました。お母様」
夕食後に自室に戻って、ごろりとベッドに寝転がる。
正面には、夜の青に沈む本棚があった。あの奥に、十通の婚約破棄通知が入っていると知ったら、お父様とお母様はどう思うだろう。
叱られるだろうか? 流石に……沢山叱られそう。
でも同じだけ慰めてくれるような気がして――だからこそ、こうするしかないと思う。
子爵家でありながら、王族との婚姻なんて、本当にお父様は上手くやったのだから。
「……、」
苛立たしげに細くなるアイスブルーが脳裏をよぎる。
殿下は、何か召し上がっただろうか。眠れただろうか。
もう、あんなものを送らないでいてくれると嬉しい……。
――しかし、その願いは一週間しかもたなかった。
何も知らない執事が、「仲がよろしいですね」とニコニコしながら王家からの手紙を持ってきたのだ。
自室でこっそり封を切る。
中身はもちろん、非公式の婚約破棄通知。




