1.十回目の婚約破棄
『リディア・ヴァレンフォード子爵令嬢、貴殿との婚約をここに破棄する。』
婚約者からの二か月ぶりの手紙だった。
金箔のまじった濃紺のワックスには、正式な王家の紋章が押し付けてある。
けれど、本来並ぶはずの宮内府書記官長の署名はどこにもない。
肩の力を抜いて、本棚の奥から小箱を取り出す。
開くと、同じ柄、同じ封蝋の手紙が九通収められていた。
一番古いものは、わずかに黄ばみ始めている。
その上にそっと手紙を重ね、ため息と一緒に再封印した。
非公式の婚約破棄通知が届くのは、これで十回目。
………
……
…
支度を整え、王宮へと向かう。
離宮と呼んでも差し支えないほどの奥まった場所に、その部屋はあった。
渡り廊下を一歩踏み出すと、途端に王宮の喧騒は遠くなる。ヒールの音ばかりがカツカツと反響した。
「失礼いたします、リディア様」
顔なじみの侍女は慣れた様子でボディチェックを始める。
「後ほど紅茶をお持ちいたします」
「ありがとう。でも、まずはお話をしてみるわ」
侍女は深く頭を下げて、そして静かに離れていく。
飴色に磨かれた扉の前に立った。
背筋を伸ばして、拳を作る。息を吸って――。
「アレクシス・エルヴィア第五王子殿下。リディア・ヴァレンフォードが参りました」
「……何の用だ」
ため息をかみ殺した。分かり切っているくせに。
「〝お手紙〟の件で参りました。一目お会いしたく」
「帰ってくれ。婚約は破棄する。決定事項だ」
少し抜けるような発音。低く掠れた語尾に力はない。
私は木目をぼんやり眺めながら思う。ああ、本当に何度繰り返しただろう。
「――だからこそ、お話を伺いに」
「話すことはない」
「私はあります」
「……」
ため息をつく。今度は隠さなかった。
「なんだかんだ言って毎回開けるんですから、さっさと中に入れてくださいまし。足が痛いのです」
ガチャリ、と言い終わらないうちに扉が開いた。
中から覗くのはこの国の王族とは思えないほどやつれた男。
荒れた前髪の奥、アイスブルーの瞳だけが静かにこちらを見ている。
血色の失せた唇は固く結ばれ、上等な室内着が少し余っている――また、痩せられた。
「ありがとうございます」
私からも扉を引いて、一応の礼儀として一礼しながら部屋に滑り込んだ。
殿下の後ろには事務机があり、几帳面に積み上げられた書類が目に入る。
開け放たれた窓から春風が吹き込んで、ベッドの天幕を静かに揺らしていた。
鼻をくすぐるインクの匂い。お仕事中だったのだろうか。けれど、邪魔されたくないのならあんなものを送らなければよい話。
私は過去九回の教訓によって速やかに手前の丸テーブルに着席し、部屋の主が対面に座るのを待った。
「あ、足。痛くないのか」
「ヒールを履いているとき、基本的にすべての女性は痛みと戦っていますわ」
テーブルの上には、一口も口を付けずに冷めた紅茶と、同じく手付かずで硬くなったクッキー。
足が痛いのは部屋に入るための口実だった。そう気づいた殿下がくしゃくしゃの顔をして、けれど逡巡ののち着席する。
「それで、今回は何があったのです?」
私はハンカチを広げ、その上にクッキーを乗せた。
目の前の婚約者は、私の問いかけに浅い呼吸を繰り返す。唇が開いては閉じ、眉間に深い皺が刻まれて……それから、ぽつりと呟く。
「二日前――ノエルが、紅茶に毒を入れた」
「……ああ、執事見習いの……まだ少し幼く見えましたが」
「そうだ、だから仕草で分かった。……またグランヴィル派の差し金だ」
ハンカチ越しに軽く力を掛けると、クッキーは三つに割れた。その中で一番小さい欠片を口に含む。
濃厚な卵の味とそれを引き立てる砂糖の甘さ……頬がほどけるほど美味しい。
「働き始めて半年も経っていなかった」
「私も、一度ハンカチを拾ってもらったことがありましたね」
まさに、このハンカチである。花の刺繍を褒めてくれて――私が自分で刺したのだと伝えれば、お嬢様すごいです、と嬉しそうに笑っていた。今思えば、潜入の為のお世辞だったかもしれないけど。
「どう、処分なさったのです?」
「……兄さんの、孤児院へ、そこからまた働き先を斡旋させる。あの子自体は、誰に指示されていたのか、何を入れたのかすら分かっていないようだったから……、」
「一番良い判断だと思います……――アレクシス殿下」
「……なんだ」
「この二日間、何か食べましたか? よろしければクッキーをどうぞ」
悔しそうな顔のまま、その視線だけが割れたクッキーに落ちる。
殿下は――エルヴィア王国第五王子アレクシス・エルヴィア殿下は、暗殺未遂があるたび、こうやって婚約破棄の意思を伝えてくるのだ。
「毒味は済んでいますので……何か食べてくださいな」
「……、」
「甘くて美味しかったですよ」
非公式のそれは、今のところ私の中で握りつぶされている。
※本作は完結まで執筆済みです。
毎日更新予定ですので、最後まで楽しんでいただけましたら幸いです。




