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16.呼び声


 失神は休息ではなかった。

 場所を移動して、水をかけられ怒鳴られて――それなのに指先さえ乾かないうちに、もう眠くなってしまう。

 油断すると糸が切れるみたいに、ガクンと眠りに落ちてしまうのだ。


 そして、そうなる直前に、あの男に揺さぶられたり――頬を叩かれたりして、強制的に目覚めさせられる。


「オイ、おーい、起、き、ろッ!!」

「うう、ぐ」


 前髪を掴まれ、腫れた側の頬を叩かれた。

 ぺちぺちとした軽いそれは、けれど腫れあがった患部に燃えるような痛みを発生させる。眉をしかめると、それも痛い。

 痛みはほんのわずかな間、私を眠りから遠ざけた。


 私の目が開いたのを確認して。男が離れる。


 ふう、ふう、と自分の呼吸が深く、短くなっていく。

 肌に張り付くドレスも、胃の中も、ずっと気持ち悪い。お腹がすいているのに吐きそうだ。


 また……目の前が暗い。目を開けて。寝てはいけない。


「ぅぅ……」


 声を出す。そうやって、寝ていない。と暴力男にアピールしていた。


 眠ってしまえば、また殴られる。

 そうでなくても、痛い目に遭う。もういやだ、もう痛いことは……。

 起きて、そして拒否し続けるの。


「ぅ……」


 まだドレスが重い、まだ署名役は来ない。何回も断っているのに。


 ――でも、もう、きっと助けなんて来ないのに……。


 顔を上げる。目の前の、小さな丸テーブル。

 対面に腰かける、殿下。


 ――どうして。


「でんか……どうして、ですか……」

「……すまない、リディア……署名してくれ」


 目の前の殿下は、そう言って曖昧に微笑んだ。

 困っているようにも見えるお顔。


 殿下。


「……あは、」


 肺のうちから、笑いがこみ上げてきた。


「ふふ、うふ、でんか。……殿下は、私のなまえ、なんて。一度も……」


 一度も。


 ……そう、一度も。


 呼んだことなんてない……。


「ふ、ふふ」


 笑ったことで少し目が覚めた。

 いつの間にか署名役が目の前に座っていて、おそらく、さっきは演技したのだろうか。

 全部私の夢かもしれなかったけれど。


「あは、は、んふ、おかしい……ふふ、」


 ああ、これはいい。笑っている間、きっと眠らないで済む。


「名前すら呼ばれていないなんて、やはり殿下は貴女との婚約を破棄したがっていた」

「ふふ、」


 そうよ。私は笑いながら頷く。


 そうだった。


 だから、十一回も……。


「こいつ、気でも狂ったかッ⁈」


 暴力男の声がする。笑い続ける私に、また水が掛けられた。

 バシャン。またしても口を開け息を吸っている最中だったから、激しく咽てしまう。


「~~ッ゛、げほ、げほッ」


 冷たく重いそれが、文字通り私の笑いを洗い落としてしまったようだ。

 再び圧し掛かる眠気。私を責める怒声。光り輝いて見える書類。


 髪の毛を掴まれる。揺さぶられる。

 痛みと気持ち悪さの中で、あきらめに似た決意が心の底に張り付いていた。


 こんなに辛い目に遭ったんだもの。最期に一つ、わがままを言ってもいいでしょう。


 殿下。


 いま、誰よりもただ、あなたに会いたい――。


………

……

…


 アレクシスは、夜闇を疾走していた。

 向かう先は、絞り込んだ三件のうちの一つ。


 その廃屋敷には地下室があって、出入り口が二つあった。

 クロスフォードの廃屋敷からさらに北――北の大門に近い。

 いずれも、いざとなった時の移動を容易にする。


 それから、目撃証言もあった。

 三件全てに何らかの人の流れがあったが、そこは近隣住民から、夜間に荷物を運び込む姿を見たという証言が出ていたのだ。


 確証などどこにもない。

 もしここでなければ兄の隊に合流すればいい。


 でも、もしここであったなら――。


 アレクシスは息を切らして走り続ける。



 屋敷の見取り図、地下室の位置は分かっていた。

 アレクシスはその出入り口の一つがある、屋敷の隣の倉庫へまっすぐ向かい、扉を蹴破った。


 狭い小屋に見張りが二人――当たりか。


「ッ何者だ!」


 二人とも椅子に腰かけ眠っていたようで、アレクシスに対して動きが一歩遅れている。

 ナイフを抜かれる前に――。


「そこをどけッ」


 鞘付きの剣で一人の首を打つ。

 声も出せずに悶絶し転がる男を横目に、ナイフを手にして襲い掛かる敵の脇腹を思いっきり打った。

 綺麗に入り、ボギッと折れる振動が手のひらに伝わってくる。


「あああ゛あ゛……ッ!!」


 男が絶叫して崩れ落ちた。

 その声に、人が集まってくるかもしれない。急がなければ。


 アレクシスは急いで、床にある扉を開く。

 斜めに伸びる階段の奥、オレンジ色の明かりがついているのが見えた。まだ人がいる。


 焦る心のままに階段を下りていくと、数歩先まで身なりのいい男が迫っていた。


「ア――アレクシス殿下ッ⁉ どうしてこんなところに!!」


 青い顔でそれだけ叫ぶと、くるりと踵を返して走り去っていく。

 アレクシスは走り出したが、その男を追う訳ではなかった。光が漏れている扉へと一直線に進む。


 勢いよく扉をあける。薄暗いそこに、求めていた人がいた。


 目にした瞬間、一度も声にしたことのない思いが溢れ出す。


「――リディアッ!!」


 わずかに俯き、虚ろな目をした婚約者。

 何か薬を盛られているかもしれない。顔が腫れ上がり、鼻血を出した跡が痛々しく残っていた。


「リディア、」

「何だお前ッ!!」


 室内にいた男がアレクシスに向かって拳を振り上げていた。

 それを寸でのところで避けてから、剣を振るおうとして――ガン、と天井を打ってしまう。


「ッ!」

「オラァッ!!」


 わずかな隙をついて、アレクシスの無防備な胴に男の拳がめり込む。


「ごふッ、」


 なんとか踏ん張って耐え、今度は横薙ぎに剣を振る。けれど鞘付きのそれはいとも簡単に受け止められてしまった。


 アレクシスは、この刹那覚悟を決める。


 握られた鞘をそのまま引き抜いた。

 ランプの光を反射して煌めく銀が、よろめく相手に追撃する形で下から袈裟斬りにする。


「ぎゃあッ」


 短い断末魔。壁に飛び散る血飛沫。そのまま後ろに倒れた男はそれきり動かなくなった。

 剣先から血が滴る。


 ――初めて人を斬った。


「……――ッ゛」


 血の匂いに喉が詰まる感覚を、けれどアレクシスは即座に切り替えた。

 剣を投げ落とし、椅子に座ったリディアの状態を確認する。


 手には手錠と、腰に鎖――どちらにも鍵がいる!


「リディア、返事をしてくれ! 頼む……ッ!」

「ぅッ……でん、……ッわた――寝てま、せ、」


 ほとんど空いてない瞳と確かに目が合う。

 けれどそれは苦しそうにフイ、と逸らされてしまった。


「しっかりしろ!」


 祈る気持ちで自分が切った男の腰を探ると鍵があった。それで急いで腰の鎖を外す。

 全身が湿ったリディアを抱え、急いで来た道を引き返した。

 一番最初に逃げた男が増援を連れてくるかもしれない。


 階段を登る、手足が痺れる。


 情けなくも息を荒げているアレクシスの胸の中で、リディアが小さく呟く。


「殿下……?」



 こんなに弱々しい声を、アレクシスは初めて聞いた。


「……ゆめ……?」

「夢ではない、リディア」


 抱える腕に、さらに力がこもった。


「助けに来た」


 するとリディアは、手枷がはまったままの手でアレクシスの服を強く握った。


「でんか……」


 まるでその存在を確かめるかのように。


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