14.残された温度
教会の一室を臨時本部として使うことになって、早くも太陽が真上を通過しようという頃。
壁は地図や聞き込みメモで埋め尽くされ、テーブルの上はあらゆる書類が何枚も重なり合って散らばっていた。
懐柔派、と呼ばれる数人の貴族。その親兄弟を含めた二十数人の所有物件を地図にピンを打っては、墓地に近い場所から偵察を走らせて「異常なし」の報告のたびにバツを打つ。
「灰鐘通り、異常ありませんでした!」
「旧貴族街、同じく異常なし!」
地図前に張り付いて、報告を聞いては積極的に書き込むアレクシス。その顔は、疲労も相まって死神のような鋭い殺気を放っていた。
その隣で、穏やかなままの兄が地図を指さす。懐柔派の建物として色分けされていて、けれどピンもバツも打たれていない。
「ここは? どうして偵察しないの」
「この区画は地下配管の関係で、地下室を造れません」
「地下室とは限らないでしょ。殺されたって小鳥みたいな声しか出さない令嬢もいる……リディア嬢は、大声を出せる子なの?」
「……いえ……しかし、地下室に絞っているのは、遮音性の問題だけではありません」
「ふーん。ねえ、ここも確認して」
「は、ただちに」
アレクシスの方針とは別に、アドリアンは隣に控えていた執事にその建物を探るよう指示した。
兄に信用されなかった。そのことについて、アレクシスは何も思わない。
けれど――「大声を出せる子なの?」という言葉が、嫌に脳内に残った。
知らないのだ。自分の前では令嬢然としているけれど、あの押しの強さから見て、いざとなればなんでもするタイプにも思える。
知らない。彼女――婚約者について、知っていることはあまりにも少ない。
その時、兵の一人が足早に駆け込んできて、敬礼する。
「報告! クロスフォード家管理の廃屋敷、出入口に新しい足跡を確認! 近隣住民も昨夜から人の出入りを証言しています!」
ガタンと立ち上がるアレクシスを、またしてもアドリアンが抑えた。
「出てる兵を集めろ。二十分後に突入。アレクシス、お前は一番後ろだ。分かっているね」
手入れのされていないイチイの木に囲まれたクロスフォード家所有の廃屋敷は、大通りからも少し外れていて薄暗く、とても都合がいいように見えた。
入り口に固まった兵が、王国の強制捜査である旨を宣言してから、勢いよく扉を蹴破る。
一斉に突入していく兵隊。裏口でも同じことが行われているはずだ。
永遠に思える数分を外で待っていたアレクシスは、玄関から駆け足でこちらにやってくる兵を見た瞬間――その報告を聞く前に、もう屋敷へと走り出していた。
「アレクシス!」
兄のやれやれ声が聞こえるが、アレクシスは振り返らない。
玄関から兵が誘導する方向へ向かい、書斎の端にある床下扉から地下へ。
突入後に争う音が聞こえず、兵のみが帰ってきた。
ここに彼女はいなかったのだろう。それでも、この屋敷は怪しい。地下室を自分の目で確かめなくては。
小さなテーブルに、ランプが一つ置かれていた。
触れると――まだわずかに温かい。
その芯は摘まれ、火は丁寧に落とされている。
オイル切れで火が消えたわけでは無い。
「……慌てて逃げたわけじゃない」
指先に伝わるそのぬくもりは、呟いた瞬間に消えてしまう。
あと一歩――遅かった。
そう唇をかみしめるアレクシスは、机の上の小さな染みに目を止める。
インクを零したような数滴は――兵から渡されたランプで照らせば赤黒く、血痕に見えた。
飛び散ってない。量も少ない。刃物による傷には見えない。
そっとその赤黒に触れる。……乾いている。しかし、まだ新しい。
数滴のそれは、かえって彼女が生きているように思わせた。
けれどその血痕は、残された時間が多くないことも示している。
………
……
…
いつからか、常に見張りが付くようになった。
部屋の端に座っている見張りの男は、私が眠りそうになると必ず「おい」といって揺り起こしてくる。
「……、」
また、肩を掴まれた。
爪を食い込ませたまま、ぐらぐらと揺さぶられる。痛い。
「おい、寝るんじゃねえ。お前、状況分かってんのか」
「さわら、ないで……ください……」
「お前がさっさと書かねぇからこんなことになってンだろうがよ!」
耳元で怒鳴られて少し意識は浮上するけれど、眠いのに変わりはないし、瞼が重くてしょうがない。
両目が熱い。体に食い込む鎖が痛い。
目の前が赤黒くて、そこに夢か現実かも分からない数多の人影が現れては消える……。
「お辛そうですね」
そこに、またあの男がやって来た。
パサ、と書類の束を机に広げて、手にしたペンでトントン、と署名欄を叩く。
「お名前一ついただければ、楽になりますよ」
ぐっと胸が苦しくなった。
手枷がはまった両手が――ずっと固く握りしめていた両手が、気が付けば開いている。
辛い、とても辛い。
眠らないことが、こんなに辛いとは思わなかった。
体全部がぐらぐらして気持ち悪い。
物事は悪い方にしか考えられないし、何が正しいのかも曖昧になりつつある。
目の前は常に黒ずんで、その中で示された署名欄は輝いて見えた。
がくり。
体を支えられなくて前のめりになる。光り輝く署名欄の、その上には、
『私、リディア・ヴァレンフォードは、ここに自らの意思をもって、アレクシス・エルヴィア第五王子殿下との婚約を辞退することを願い出ます――』
お父様が繋いだ大切な婚約。
……家族は、今頃どうしているだろう。心配をかけているだろうか。泣かないで、クララ……。
ああ、殿下。
ろくに食べず、眠れないことが、こんなに辛いなんて。知らなかったの……。
会いたい。
お顔を見てせめて、どうしてと、聞きたい。
――そうだ、だから。
こんなものに勝手に署名してはいけないの。
「いいえ、……お断り――っぐぁッ⁈」
ガァン!! と頭に何かぶつかって、意識が急速に覚醒した。
何事か分からなくて体が暴れる。
再び強く頭を押し付けられたことで、机に頭を打ち付けられたのだと理解した。
痛い、痛いッ!
「ぁ゛――ッ⁈」
「いい加減にしろッ!! いつまで意地張ってやがる!」
「馬鹿! やめろ!」
「貴族のお嬢様がッ、――このッ」
「ぅぅゔッ、」
「止めろ! 手を離せ!」
「殺されねぇと思ってんのかァッ!! ああッ⁉」
ブチブチと髪が抜ける音がする。打ち付けられた顔半分が熱い。
逃げたくて体を引きたいのに、下半身の拘束のせいで抵抗できない。
「何してくれてんだ、計画が狂うだろ!」
「知らねぇよッこの女が悪いんだッ!!」
放り投げる勢いで、髪が離される。勢いそのまま、ゴンッともう一度木目におでこが叩きつけられた。
その時、頭の奥で何かが千切れたのだと思う。
「クソッ寝てんじゃねぇッ!」
「はぁ。いい、寝かせておけ。予定より早いが、移動しよう」
急速に現実が遠のく――ドクドクと脈打つ赤い痛みの中で、私は意識を失った。




