第29話 過去の教え
これは私、紀野万由の身に起こった少し不思議なお話……。
2008年7月のこと、私の両親は、私の齢を十数えない内に、性格の不一致という言い訳で離婚してしまった。
常識のあった母親が親権を取ったのはいいものの、やがて母親は働く女性の代名詞と化していった。一ヶ月に一度会えたらいいほうで、自宅にはいつも静寂が流れていた。
毎日夜が更けても、私の目の前には出来合いの食事と、幾つかの書類が転がっているだけで、母親は深夜遅くまで働き詰めていた。
それもそのはず、両親が離婚した直後、日本は過去最大の金融危機に見舞われた。
母親はリストラから逃れるため、私の生活を守るために誰よりも必死になって労働するしかなかった。幸いにも私は、その事実を認識できていた。
……ママは悪くない。全部社会が悪いんだよね。たかだか九つの小娘がそう思うくらいには、当時の日本社会は混乱の最中にあった。
そんな小学三年の私は、明らかに孤独だった。全く愛を享受していなかったわけではないが、間違っても恵まれた家庭とは言い難かった。
たまに商店街を出歩くと、何組もの親子連れが笑顔を共有しながら闊歩しており、私との対称性に酷く打ちひしがれた。
この家族に天罰が下だればいいと思う憎悪は、私の惨状を「運命」だと割り切ることで、次第に解消されていった。
運命という概念は、私の現実逃避の場として最適なところで、何でも運命と位置付けることが、私の生きる価値に多様性を産んでくれた。だから、私は運命なしには息絶えると自覚していた。
それからの毎日は運命に縋って、運命と今日を生きる日々が続いた。虚しくはなかった。
ただ、何かに成功してもそれは運命だし、失敗してもやっぱり運命に帰依する。何をしても喜怒哀楽が現れることは無かった。
私は知らない間に、自分の感情を殺めていた。再び生きる価値を失う日もそう遠くはなかった。
あれから四年が経って中学一年になった私は、本格的に思春期に突入していた。物心は次第に強固なものになっていき、精神的にもそれ相応に成熟していた。
しかしこの時期になって、私の人生観は真っ向から覆されることになる。
ある日のこと、私はネット広告を経由して、こんな哲学書と出会った。その書物には、「実存主義」といわれる、運命を私達が切り開くという思想が語られていた。
私の知っている運命とは対極をなす発想だが、この哲学書の著者は大人で、私の支持する運命論の著者は、九歳の自分。
どちらの方が核心を突いているかは言うまでもなかった。
私は自身の運命論を否定されたことで、また心の拠り所を喪失してしまった。
このとき、たしかに女友達だったり、私に惚れてきた男子数人の誰かしらに、自分の心を委ねる手段はあった。
しかし彼ら彼女らは、私との交際を一種の「ステータス」としか見ておらず、とりわけ私に惚れた男子はその理由について、顔立ちか性的な部分でしか回答することができなかった。
誰も私のことを、「人間性」の観点から判断してくれなかったのだ。
高級ブランドはブランドの矜持のために、売れなかった製品は皆、廃棄するのだそう。
同じように自分自身を安売りしたくなかった私は、結果的に誰との関わりも持ないで、孤独を抱え込む方針に舵を切った。
……この決断は、今となっては誤りであり、また正解でもあると思う。
心の拠り所を無くし、それ以下の存在からも尽く疎外された私は、孤独による絶望から胃が縮んでしまい、食事を取ることが出来ずにいた。母親には申し訳なく思ったが、このまま飢え死にできれば本望だとまで考えるようになっていた。
断食二日目になって、母親はやっと有給をとって私の傍についてくれた。ざっと一ヶ月ぶりの顔合わせとなった。母親は私の身体を案じる。
「万由……、どこか体調悪いのよね?」
「……大丈夫だから、お母さんは心配しないで仕事に行ってきて。」
「お母さんって……、今日は休みをもらったから、病院に行って見てもらうわよ。」
「もう、いいよ……。放っておいてよ。」
「そうもいかないでしょ……。」
「だからいいって言っているじゃん!お母さんが大変なのは知っているよ!なにも生まれない私なんかに時間を裂かないでよ!」
「万由……、いい加減にしなさい。」
「……それなら、それならなんで離婚したの!」
「それは……。」
「もし三人で暮らしていたら、今より独りの時間は少なかったかもしれない……。結局ママは食事、パパは養育費で私に延命処置を施すけど、私を突き放しているんだよね。」
「……そんなことはないわ!」
「突き放している以上、もう変に私と干渉しないでほしいの。とことん独りにさせてよ……。」
母親は私の前で床を濡らした。母親としての威厳は完全に損なわれていた。怒り狂ってもいいはずの場面で、私の猛追と惨状にひれ伏した。
その日の晩、私は布団で涙を零した。私の心身は見るも無惨に斬り刻まれ、三途の川への選択が間近に迫っていた。
つい選びそうになっては恐怖で怖じ気付き、また選びそうになることを繰り返して、最終的には疲れ果てて睡魔にさらわれた。
……ここで、私の人生を一変するある出来事が起きた。
私は変な空間に飛ばされた。そこは自然豊かな花畑で、視界の縁に靄がかることで、より幻想的な景色と化していた。
すると花畑の奥から、ある一人の男性が近付いてくる。彼は大体高校生ぐらいの青年で、普通の顔と身体つきをしていた。体育座りをする私に対して、彼も可能な限り同じ高さまで屈んで、こう話し掛けてきた。
「笑顔がどこにもないね。どうかしたのか?」
「誰ですか、あなた……、ってなんで……、言葉を発せられる……。」
私はここで、自分が意思を持って彼に話し掛けられることに気が付いた。私はこの現象の名前を知っていた。
明晰夢というものだ。自分の好きなように夢を操れる現象で、私は初めてのことで驚きを隠せずにいた。それを動揺だと思った彼は、私にこう言い放つのだ。
「そんな心配するなよ……。別に何も危害は加えないからさ。」
「そうですか……。」
「僕は西野優斗、2018年を生きる、ごく普通の高校生だよ。君は?」
「……紀野万由と申します。どうして2018年のあなたがここに……?」
「さぁな。たまたまここに飛ばされたんだよ。今日は君以外にも何人かとこうして会話しているよ。」
「それはなんとも大変ですね……。」
私がそう言って俯くと、彼はこちらを覗いて、単刀直入にこう問い掛けてきた。
「孤独か?」
「……え?」
「いや、孤独な子供達ばっかり見てきたから、てっきりそうかな……、なんて思った次第だよ。」
「あなたの推理は正しいと思います……。もしかしたら、私は一生孤独なのかもしれません……。」
「孤独から脱却したいとは思うんだよな。」
「いえ……、大概そうでもないんです。」
「……ん、ん?」
どうやら私は彼を困惑させてしまったようだ。孤独から脱却しなくてもいい理屈は存在しない。
そこで私は彼に事情を説明をすることにした。
「私が誰かと関わろうとしても、誰も紀野万由という人間を見てくれないんです……。だから私は自らの意思で孤独を選んだんです。」
「でも、今はそれで自分の首を締めていると?」
「……察しがいいですね。」
「まぁ、ここは夢の世界だからな。」
彼が相当場数を踏んでいる人間なのは明白で、目には一切の迷いが無かった。
「ただ、当時の私には他の策を考えられませんでしたし、いまでも発想が浮かびません……。」
私がそう胸の内を明かすと、彼は躊躇わずこう即答してきた。
「簡単な話だよ。君は学友と友好関係を深めればいいんだ。」
「……さっき言ったじゃないですか。誰も私を見ていないって。」
「たしかに、君は美形だと思うし、その辺の苦労も絶えないんだろうな。」
「だから……。」
「だけど、君の周りにいる人間はまだ中学生で精神的に発達途上なんだ。するとみんな、顔っていう分かりやすい才能に寄って集るんだよ。君はその習性を利用するんだ。」
「利用……、ですか?」
「そう、彼ら彼女らに崇め奉られて、人一倍の自己肯定感を得るんだ。いつか君の人間性に気付く人のためにね。」
「……それって卑怯じゃないですか。」
「全くそんなことはないよ。ただ、君の存在価値と引き換えているだけのことだから。」
「私の存在価値……。」
私に存在価値が付与される方法は、自分が勝手に狡猾だと誤認していた契約によるものだった。
中学生との正しい交際方法を知った私は、彼の目をまじまじと見つめてしまった。自分の世界から一歩を踏み出すことで、ここまで価値観が変容するとは思いもしなかったからだ。
彼はそんな私に微笑んで、こう言い放つ。
「まぁ、僕の意見を受け入れられなくても、取り敢えず社交性は身に付けておこうな。あ、試しに僕と会話してみるか?」
「……あなたは、何のために私を啓蒙して下さるんですか?」
「うーん、僕もなんでここに飛ばされたか分からないんだけどね……。」
熟考の末に彼が続けた言葉は、私にゆかりのあるあの概念だった。
「……運命じゃないかな、きっと。」
「ば、漠然としていませんか……?」
「努力だってなんだって、時代と環境、自分の気概と出会いっていう偶然によるから、全ては運命だと解釈する方がいいんだ。何より気が楽だしな。」
彼は私の考える運命論を最大限肯定した。彼にそんな意図は無かったと思うが、とにかく私は激励された。
この瞬間、私の存在価値と価値観の二つの「価値」は確定して、彼の言葉が私の未来を切り開いていくのだった。




