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死の森のサバイバルと、異端の薬師

王都の追手たちが放った猟犬の吠え声は、『迷らずの森』の入り口でピタリと止まった。

本能なのだろう。これ以上先へ進めば、自分たちが「狩る側」から「狩られる側」に回るということを、動物たちは正確に理解していた。


「……巻いたみたいだな」


鬱蒼と生い茂る巨大な木々の隙間から、わずかに差し込む月明かり。

俺は背中のアイシャを下ろし、倒木に寄りかかって荒い息を吐いた。


この森は異常だ。

『黄金の瞳』で周囲を見渡すと、大気中のマナがどす黒く濁り、そこかしこに凶悪な魔獣たちの気配が渦巻いているのがわかる。俺はマナの薄い「安全な獣道」だけを必死に選びながら、丸一日歩き通していた。


「アイシャ、水飲むか? 少し休もう」

「…………」


返事がない。

嫌な予感がしてアイシャの顔を覗き込むと、彼女は目を閉じたまま、小刻みに痙攣していた。


「おい、アイシャ!?」


額に手を当てると、火のように熱い。

昨晩の泥水と冷気、そして極限の疲労が、彼女の心臓の『拒絶反応』を一気に加速させてしまったのだ。

呼吸は途切れ途切れで、胸をかきむしるように抑える指先からは血が滲んでいる。


「しっかりしろ! クソッ、どうすれば……!」


俺は三十四歳の大人の記憶を持っているが、医者じゃない。ただの底辺フリーターだった男だ。

魔法も使えなければ、この世界の薬草の知識もない。

ただ無力に、目の前の少女の命の灯火が消えようとしているのを見ていることしかできないのか。


(ふざけるな。絶対に助けるって約束したんだ……!)


俺がアイシャを抱き起し、再び歩き出そうとしたその時だった。


「――無駄じゃよ。それは病ではない。この世界そのものが、その娘の魂を握り潰そうとしているんじゃからな」


「誰だッ!!」


俺は即座に足元の石を拾い上げ、声がした茂みへと『黄金の瞳』を向けた。

そこに立っていたのは、ボロボロのローブを深く被り、奇妙な杖を突いた猫背の老人だった。片目には濁った義眼がはめ込まれている。


老人は俺の投げようとしている石と、黄金に光る瞳を見て、ヒッヒッと気味の悪い笑い声を上げた。


「ほう。マナを持たぬガキが、魔獣の急所を的確に穿つ目を持っておるか。……面白い。お前さんたち、王都から逃げてきた『特異指定』じゃな?」

「……王都の手先か?」

「冗談を言うな。わしはあんな窮屈な場所、とうの昔に追い出された『異端の薬師』じゃよ。世界の理を研究しすぎてな」


薬師と名乗った老人は、ローブの奥から小さなガラス瓶を取り出し、俺の足元へ放り投げた。


「それを飲ませてやれ。一時的にマナの暴走を抑える薬じゃ。……本当にその娘を助けたいなら、わしの小屋へ来い」


疑わしかったが、選択肢はなかった。

俺は薬をアイシャの口に含ませると、背中に背負い直し、老人の後を追った。


* * *


森の奥深く、大樹のうろを利用して作られた隠し小屋。

悪臭のする薬草が煮込まれる鍋の前で、アイシャを寝かせた俺は、老人――ギランと名乗った薬師の話を無言で聞いていた。


「この娘からは、別の次元の波長を感じる。この世界こちらがわのルールに適合していない魂が、無理やり肉体に縛り付けられている状態じゃ。……そりゃあ心臓も悲鳴を上げる」


ギランはアイシャの胸元に耳を当て、忌々しそうに舌打ちをした。


「長くは持たんぞ。もってあと三日というところか」

「……治す方法は。あんた、薬師なんだろ」


俺が睨みつけると、ギランは濁った義眼で俺を見つめ返した。


「一つだけある。次元の波長を強引に上書きして、『この世界の住人』として魂を定着させる劇薬がな」

「それをくれ! 金なら後で絶対に――」

「金で買えるような代物ではないわい!」


ギランが杖で床を強く叩いた。


「迷らずの森の最深部、『奈落の谷』。そこに棲みついている森のヌシ……『深緑の霊獣』の心臓の血じゃ」

「霊獣……」

「数百年を生きた霊獣の血には、この世界の最も純粋で濃密なマナが宿っておる。その熱い返り血を全身に浴びれば、娘の魂の波長は強制的に書き換えられ、呪縛から解き放たれるじゃろう」


ギランは皮肉めいた笑みを浮かべた。


「だが、相手は王都の一級騎士が小隊を組んで挑んでも全滅するような化け物じゃ。石を投げるのが少し上手い程度の六歳のガキに、殺せる相手ではない。……諦めて、ここで娘の最期を看取るんじゃな」


圧倒的な力の壁。

前世の俺なら、間違いなくここで心を折られていただろう。

だが、俺の中の『黄金の瞳』は、恐怖ではなく、静かな怒りと覚悟で熱く燃え上がっていた。


「……奈落の谷だな」

俺は立ち上がり、腰のポーチに手頃な硬い石をいくつも詰め込み始めた。


「正気か、小僧? 死にに行くようなもんじゃぞ」

「俺はもう、逃げないって決めたんだ。アイシャは俺が絶対に助ける」


眠っているアイシャの白銀の髪を一度だけ優しく撫で、俺はギランを真っ直ぐに見据えた。


「三日だ。それまでに絶対にあいつの血を持って帰ってくる。……だから、それまでアイシャの命を繋いでおいてくれ」


三十四歳の魂を懸けた、俺の異世界での最初の「死闘」の幕が、静かに上がろうとしていた。

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