奈落の谷と、単独の死闘
「……三日だ。それまでに絶対にあいつの血を持って帰ってくる。アイシャの命を頼むよ、じいさん」
隠し小屋の奥で浅い呼吸を繰り返すアイシャを一瞥し、俺はギランから受け取った空のガラス小瓶を腰のポーチにねじ込んだ。
ポーチには他に、森の中で拾い集めた「鋭く尖った硬い石」が十数個入っている。今の俺の全財産であり、唯一の武器だ。
「死ぬ気でいけよ、小僧。相手は森の理そのものじゃからな」
ギランの濁った義眼に見送られながら、俺は小屋の裏手にある切り立った崖――『奈落の谷』へと続く急斜面を下り始めた。
谷底へ近づくにつれ、空気がゼリーのように重く、粘り気を帯びてくるのを感じる。
大気中のマナが濃すぎるのだ。息をするだけで肺が焼けるように熱い。空を覆い隠す巨大な樹冠のせいで、昼間だというのに谷底は薄暗く、青白く発光する奇妙な苔だけが光源だった。
(……いるな)
谷の最深部、ひときわ開けた空間。
そこに『それ』はいた。
体長は優に五メートルを超える。全身を深緑の苔と蔦に覆われた、巨大な狼のような獣。額には天を突くような鋭い一本角が生え、その体からは圧倒的な濃度のマナが緑色の蒸気のように立ち上っている。
森のヌシ、『深緑の霊獣』。
前世の記憶を含めても、これほど純粋な「死の恐怖」に直面したのは初めてだった。
六歳の子供の体なんて、あいつの前足が一振りされるだけで消し飛ぶ。
(だが、逃げるわけにはいかない……!)
俺は大きく息を吐き出し、ポーチから最も鋭い石を取り出した。
そして、意識を極限まで研ぎ澄ます。
視界が琥珀色から『黄金色』へと切り替わる。
世界が遅くなり、霊獣の周囲で渦巻く膨大なマナの流れが可視化された。
完璧な防御に見える緑のオーラ。だが、黄金の瞳はその胸元に、わずかにマナの薄い「古傷」のような一点を見つけ出していた。
(あそこだ。あそこに、全力の一撃を……)
ザッ、と。
俺が石を投げるための踏み込みを入れた瞬間、霊獣の巨大な目がこちらをギロリと睨みつけた。
『――グルルルルルッ!!』
鼓膜が破れそうな咆哮。
遅くなっているはずの世界の中で、霊獣だけが異常な速度でこちらへ跳躍してきた。
「くっ……!」
俺は咄嗟に横へ転がる。
直前まで俺がいた場所の巨大な岩が、霊獣の爪で豆腐のように真っ二つに引き裂かれた。
速すぎる。石を構える隙すらない。
霊獣は着地と同時に身を翻し、再び俺へと牙を剥く。
(見極めろ……! このままじゃ殺される!)
俺は黄金の瞳を限界まで見開いた。目から血の涙がこぼれ落ちる。
霊獣の筋肉の収縮、風の抵抗、そして次の瞬間の軌道。
奴は真っ直ぐに俺の喉笛を噛み千切りに来る。
俺は逃げずに、その場に強く足を踏み込んだ。
そして、左手に持っていた「ただの丸い石」を、霊獣の顔面めがけて軽く山なりに放り投げた。
霊獣にとって、そんな石は羽虫にも等しい。
奴はそれを無視して突っ込んでくる。
だが、俺の狙いはダメージじゃない。その丸い石が、霊獣の『右目の死角』を一瞬だけ塞ぐタイミング。
「おおおおおおっ!!」
死角に入り込んだその一瞬、俺は右手に握った本命の鋭い石に、三十四歳の魂と六歳の肉体のすべてを乗せて振り抜いた。
空気を切り裂く爆音。
一直線に飛んだ鋭い石は、霊獣の胸元にあるマナの薄い古傷――『心臓の真上』へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。
『ギャアアアアアアアアッ!!!』
致命の急所を抉られ、霊獣が狂乱して暴れ回る。
その前足が俺の腹を掠め、六歳の軽い体はボールのように吹き飛ばされて大樹の幹に激突した。
「ガハッ……! ゲホッ、ごほっ……」
肋骨が何本か折れた感覚。口から大量の血が吐き出される。
だが、霊獣もまた、心臓を破壊されてその巨体をドスンと谷底に沈め、緑色の光の粒子となって崩れ去ろうとしていた。
俺は激痛に耐えながら地面を這い、消滅していく霊獣の胸元へと必死に手を伸ばした。
傷口から溢れ出ている、熱く脈打つ深緑の血。
「これさえ……これさえあれば、アイシャが……」
震える手でポーチからガラス小瓶を取り出し、その尊い血を溢さずに注ぎ込む。
小瓶がいっぱいになったのを確認した瞬間、俺の意識は限界を迎え、深い暗闇の中へと沈んでいった。




