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深緑の奇跡と、終わりの始まり

「……はぁっ、はぁっ……っ」


全身の骨が軋み、口の中に鉄の味が広がる。

肋骨が折れているせいか、息をするだけで激痛が走った。それでも俺は、霊獣の血が入った小瓶を握りしめ、崖の斜面を這いつくばって登り続けた。


意識を失っていたのは数時間だろうか。ギランの言っていた「三日のタイムリミット」まではまだ少し余裕があるはずだが、アイシャの体がいつまで保つかわからない。


(急げ。早く、アイシャのところへ……!)


泥だらけになりながら崖を登り切り、隠し小屋の扉に倒れ込むようにして体をぶつけた。


「じいさん……! 持って、きたぞ……ッ」


ドサリと床に倒れ込んだ俺を見て、薬を煎じていたギランが目を剥いて立ち上がった。


「バカな……。たった一人で、本当に霊獣を屠ってきたというのか……!?」

「早く……アイシャに……」


俺が血だらけの手で小瓶を差し出すと、ギランは震える手でそれを受け取った。


「見事じゃ、ルグ。……あとはわしに任せて、少し休め」


ギランはアイシャの寝かされているベッドへ向かい、小瓶の蓋を開けた。

霊獣の血からは、尋常ではない熱量のマナが緑色の光となって立ち昇っている。ギランは呪文のようなものを低く唱えながら、その血をアイシャの胸元――心臓の位置にゆっくりと垂らした。


「――っ!! あぁぁぁぁぁぁッ!!」


アイシャが目をひん剥き、絶叫を上げた。

無理もない。違う次元の魂を、この世界の波長に強引に書き換えているのだ。霊獣の血がアイシャの肌に吸い込まれていくたび、彼女の体を縛っていた「世界からの拒絶」が、黒いもやとなって霧散していく。


「アイシャ、頑張れ……! ここを乗り越えれば、もう苦しくないからな……!」

俺は激痛を堪えて這い寄り、アイシャの暴れる手を強く握りしめた。


「ル、グ……っ、あぁぁぁ……っ!」

数分間続いた凄絶な儀式。

やがて、アイシャの体から黒い靄が完全に消え去り、代わりに彼女の本来の力である『白銀のマナ』が、雪の結晶のように美しく輝き始めた。


「……終わったぞい」

ギランが額の汗を拭い、大きく息を吐いた。


アイシャの荒い呼吸が、嘘のように静かに、そして力強いものへと変わっていく。

枯れ枝のようだった肌に赤みが差し、苦痛に歪んでいた表情が穏やかになった。


「アイシャ……わかるか?」


俺がそっと呼びかけると、アイシャの長いまつ毛が震え、ゆっくりとその瞳が開かれた。

透き通るような、サファイアブルーの瞳。そこにはもう、病の影も、奴隷としての絶望もなかった。


「……ルグ。私……痛くない。息が、ちゃんとできる……」

アイシャは自分の胸に手を当て、信じられないというようにポロポロと涙を流した。


「本当に、私を助けてくれたんだね……。絶対に逃げないって、約束、守ってくれたんだね……っ!」

彼女は身を起こし、俺のボロボロの体にそっと抱きついた。


「いてて……バカ、俺の骨が折れる」

「あっ、ごめんなさい……!」

「嘘だよ。……よかったな、アイシャ」


二人の間に、ようやく訪れた安堵の時間。

ギランもまた、その濁った義眼を細めて、俺たちを優しく見守っていた。


だが。

運命は、どこまでも俺たちに過酷だった。


ドゴォォォォォォンッ!!!


突如、鼓膜を破るような爆発音と共に、隠し小屋の分厚い木の壁が真っ赤な『魔法の業火』によって跡形もなく吹き飛ばされた。


「なっ……!?」


爆風で吹き飛ばされそうになるのを、俺は咄嗟にアイシャを庇って耐えた。

もうもうと立ち込める煙と火の粉。その向こうから、冷たい金属の足音が近づいてくる。


「チッ……結界を何重にも張っておったというのに。王都の犬どもめ、嗅ぎつけるのが早すぎるわい」

ギランが忌々しそうに舌打ちをし、手にした杖を構えた。


燃え盛る炎を割って現れたのは、純白の鎧を血と煤で汚した、あの特務騎士だった。その後ろには、武装した王都の精鋭部隊がズラリと並んでいる。


「ネズミ共め……下水道の泥水を啜ってまで逃げた先が、こんな老いぼれの裏切り者の隠れ家とはな」


特務騎士は剣を抜き、俺とアイシャを見て冷酷な笑みを浮かべた。


「あの病の奴隷が、まさかここまで膨大なマナを隠し持っていたとはな。素晴らしい。千年計画の極上の『素材』だ。……さあ、逃げられると思うなよ。貴様らは王の偉大なる所有物なのだから」


「ふざけるな……ッ!」

俺は立ち上がろうとしたが、折れた肋骨の痛みに顔を歪め、片膝をついてしまった。

黄金の瞳を酷使しすぎた代償で、視界もかすんでうまく見えない。


圧倒的な力の壁。

ルグは重傷。相手は王都の精鋭。絶体絶命の窮地。


だがその時――俺を背後から庇うように、一人の少女が前に出た。


「ルグには……もう、指一本触れさせない」


白銀の髪を炎の風に揺らしながら立ったのは、呪縛から解き放たれたアイシャだった。

その瞳には、かつての『剣聖』の血脈を継ぐ者としての、研ぎ澄まされた刃のような殺気が宿っていた。

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