第2巻『OUTSIDER 〜反逆の逃亡者と、白銀の剣姫〜』
カビと腐臭、そして絶望の匂いがする。
王都の地下深くにある牢獄は、太陽の光など届かない完全な暗闇だった。
「……っ、はぁっ、かはっ……」
冷たい石の床の上で、アイシャが胸を押さえて激しく咳き込んでいる。
連行されてから水すら与えられず、彼女の心臓の『拒絶反応』は限界に近づいていた。白銀の髪は泥にまみれ、呼吸のたびに小さな体が痛ましく痙攣している。
俺は彼女の背中をさすりながら、鉄格子の外を睨みつけた。
(……明日には『隷属の刻印』を刻まれる。タイムリミットは今夜しかない)
鉄格子の向こう側の通路では、見張りの看守が粗末な木の椅子にふんぞり返り、安いエール酒をあおって居眠りを始めていた。その腰には、鈍く光る鉄の鍵束がぶら下がっている。
力のない六歳の子供なら、泣いて朝を待つしかない状況だ。
だが、俺の中には三十四年間、泥水をすするような底辺を生きてきた大人の魂がある。
俺は牢の隅にしゃがみ込み、壁の崩れた隙間から『親指大の硬い石の欠片』を二つ拾い上げた。
「ルグ……?」
「静かに。ここから出るぞ」
アイシャが微かに目を開けるのを確認し、俺は鉄格子の隙間に腕を滑り込ませた。
三十四歳の冷静な思考と、六歳のしなやかな筋肉。
(……見極めろ)
視界が琥珀色から『黄金色』へと切り替わる。
世界が極端に遅くなり、通路を吹き抜ける微かな風の軌道や、看守の腰で揺れる鍵束の動きが光の線となって可視化された。
狙うのは、看守の腰のベルトと鍵束を繋ぐ「脆くなった革の留め具」。
そして、落ちた鍵束が音を立てないための「着地点」。
俺は一つ目の石を、手首のスナップだけで鋭く弾き飛ばした。
ヒュッ。
音もなく飛んだ石が、看守の腰の革留め具を正確に撃ち抜いて破壊する。
鍵束が床に落ちる――その一瞬前。
俺は間髪入れずに二つ目の石を放った。二つ目の石は床の石畳に当たり、完璧に計算された角度で跳ね返ると、落下中の鍵束のリングに『カチンッ』と衝突。
その僅かな衝撃と反動が、鍵束の落下軌道を強引に捻じ曲げた。
チャラッ……。
鍵束は看守の足元ではなく、俺が伸ばした手のひらの中へ、まるで吸い込まれるように音もなく収まった。
「……よし」
俺は震える手で鍵穴に鍵を差し込み、油切れの音が鳴らないよう、ミリ単位の慎重さで鉄格子を開けた。
「行くぞ、アイシャ。立てるか?」
「……うん」
俺はフラフラのアイシャの手を引き、いびきをかく看守の横をすり抜けた。
向かう先は、牢獄の奥にある「地下水路」の入り口だ。連行される途中、大気中のマナの流れを黄金の瞳で観察し、あの鉄扉の奥にだけ不自然な風の通り道(外への抜け道)があるのを見抜いていたのだ。
分厚い鉄扉を開けると、強烈な下水の悪臭が鼻を突いた。
膝まで浸かるほどの冷たい泥水と、ネズミの死骸が流れる真っ暗な水路。
「……っ!」
泥水に足を入れた瞬間、アイシャが小さく悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。ただでさえ衰弱している体に、この悪臭と冷気は毒すぎる。
「もう……ダメ。足が、動かない……」
アイシャは涙目で俺を見上げた。
「ルグ、お願い。私を置いて逃げて……。私がいれば、二人とも捕まって、殺されちゃう……っ」
奴隷として命の価値を否定され続けてきた彼女にとって、それは心からの本音だったのだろう。
だが、俺は泥水の中にしゃがみ込み、アイシャを強引に自分の背中へと背負い上げた。
「馬鹿言うな。俺たちは相棒だろ」
「ルグ……?」
「俺は、二度と目の前の命から逃げないって誓ったんだ。それに、お前の母さんと同じ故郷の男が、こんな所で女の子を置いて逃げたら、末代までの恥だからな」
六歳の小さな背中。だが、アイシャは俺の首に腕を回し、声を殺して泣き始めた。彼女の涙が、俺の首筋を温かく濡らす。
泥水を掻き分け、悪臭に耐えながら、俺は暗い水路を必死に歩き続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。
不意に、目の前の暗闇が途切れ、外の星空が見えた。
「出たぞ……!」
水路の排水口を抜け、斜面を転がり落ちる。
そこは、王都の巨大な城壁の外側だった。
だが、安堵したのも束の間。王都の壁の上から、カンカンカンッ! とけたたましい警鐘が鳴り響いた。
「脱走だ!! 地下水路から外へ逃げたぞ! 狩人部隊を放て!!」
見つかった。
城門が開き、松明の光を持った騎馬隊や、魔獣を連れた追手たちが一斉にこちらへ向かってくる。
「ルグ、どうしよう……追手が!」
アイシャが怯えた声を上げる。
俺たちの目の前に広がるのは、王都の人間が決して近づかない、巨大で漆黒の森――魔獣の巣窟として知られる『迷らずの森』だった。生還率ゼロと言われる死の森だ。
「……行くしかない。あの森の中なら、馬も魔法も使いにくいはずだ」
俺はアイシャの手を強く握り直した。
「絶対に俺から離れるなよ、アイシャ!」
「……うんっ!」
俺たちは松明の光を背に、漆黒の死の森へと飛び込んだ。
王都の絶対的な力に対する、ちっぽけな二人の、壮絶な反逆の逃亡劇が始まったのだ




