第1章:辺境の開拓村と、禁忌の黄金(アウレウス)
俺が「ルグ」としてこの世界に生まれ変わってから、六年が経った。
ここは王都から遠く離れた、辺境の開拓村。
木組みと土壁の粗末な家が数十軒身を寄せ合うように建ち並び、村の周囲は高い木の柵で囲まれている。
なぜなら、この世界は常に『魔瘴』と呼ばれる黒い霧の脅威に晒されているからだ。魔瘴の濃い森の奥からは異形の魔獣が生まれ、一歩安全圏を出れば、命の保証はない。
対抗する手段はただ一つ、大気中に存在するエネルギー『魔力』を操る「魔法」だ。
だが、魔法を使えるのは、生まれつき魔力回路を持つ一部の貴族や、王都の特別な訓練を受けた騎士だけ。俺たちのような辺境の平民にとって、魔法なんておとぎ話に近い存在だった。
「――ふぅっ」
鬱蒼とした森の入り口。
俺は一本の巨木から二十メートルほど離れた位置に立ち、足元の小石を拾い上げた。
手の中で、石の重さと重心を確かめる。前世の硬式ボールに比べればいびつで投げにくいが、それでもこの六年間、俺は毎日この感触を指に覚えさせてきた。
狙うのは、巨木の幹にチョークで書いた拳大の「小さな的」。
俺は大きく息を吐き、左足を高く上げた。前世で何度も何度も繰り返し、三十四歳の魂にまで染み付いているピッチングフォーム。
(……見極めろ)
意識を極限まで研ぎ澄ます。
すると、普段は澄んだ琥珀色をしている俺の視界が、ふっと別の色に切り替わった。
『――黄金色』。
俺の瞳が金色に発光した瞬間、世界が奇妙なほどゆっくりと動き始める。
風の動き、落ち葉が舞う軌道、さらには普通の人間の目には絶対に見えないはずの大気中の『マナの流れ』までもが、淡い光の粒としてはっきりと可視化される。
なぜ、魔法すら使えない俺にこんなことができるのか。
おそらく、前世の俺が持っていたボールの縫い目すら捉える『異常な動体視力』を持った魂が、この世界の魔力と結びつき、強引に突然変異を起こした結果だ。
この世界の理から完全に外れた、異端の力。
(ただ……なんだろうな、この感覚)
黄金の視界の中で、俺は自分の胸の奥底にある奇妙な「壁」を感じていた。
今の俺に見えるのは、あくまで『マナの流れ』と『少し遅くなった世界』だけ。心の奥深くには、もっと恐ろしいほどの力が眠っている「扉」がある気がする。だが、その扉には頑丈な鎖が何重にも巻かれていて、六歳の子供の感情や肉体では、どうやっても開けられないような圧倒的な「限界」を感じていた。
今はこれでいい。
風が止み、マナの乱れが消えた完璧な一瞬。俺は全身のバネを使い、右腕を思い切り振り抜いた。
ヒュッ――!
六歳の子供が投げたとは思えない鋭い風切り音を残し、小石は一直線に空気を裂いた。
パァァンッ!!
小石は、二十メートル先の的のど真ん中を正確に撃ち抜いて粉々に砕け散る。
「よしっ!」
「見事なコントロールだな、ルグ。だが……」
背後の茂みから現れたのは、巨大な猪の魔獣を軽々と肩に担いだ大男――父親のガルドだった。
無精髭を生やした顔は、先ほどの俺の投擲を見ても笑っていなかった。むしろ、ひどく険しい表情で周囲を警戒している。
「父さん……おかえり」
「ルグ。俺や母さんの前以外で、その『黄金の瞳』は絶対に見せるなと、いつも言っているだろう」
ガルドは重い魔獣をドスンと地面に下ろすと、俺の前にしゃがみ込み、両肩を強く掴んだ。その目は真剣そのものだった。
「お前のように、呪文も詠唱もなしにマナを視覚で捉える人間なんて、この世界には存在しない。それは魔法というより、神か悪魔の御業だ」
夕暮れの冷たい風が吹き抜ける。ガルドの声が一段と低くなった。
「もしその瞳のことが王都の連中……国や教会の耳に入れば、お前は確実に『特異指定』として連行される。研究の道具にされるか、戦争の兵器として一生飼い殺しにされるぞ。……俺とエルナは、お前を絶対に手放したくないんだ」
父さんのその大きく温かい手は、かすかに震えていた。
王都の貴族や騎士たちが、どれほど冷酷に辺境の民を扱うか。それを身をもって知っているからこその震えだった。
「ごめんなさい、父さん。……絶対に気をつけるよ」
「ああ。わかってくれればいい」
ガルドは表情を和らげ、俺の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
前世で俺を撫でてくれた、ばあちゃんの手を思い出す温かさだった。
「さあ、帰ろうルグ。エルナがお前の大好きなシチューを作って待ってるぞ」
「本当!? やった!!」
夕日に照らされながら、俺はガルドの大きな手を開拓村へと向かって引いた。
家へ帰ると、母さんのエルナが温かい笑顔で迎えてくれた。
木のテーブルを囲み、ガルドが狩ってきた肉と、エルナが育てた野菜のシチューを三人で食べる。ランプの灯りに照らされたこの小さな空間だけが、残酷な世界の中で唯一の「陽だまり」だった。
俺は今度こそ、逃げない。
この温かい家族を守るためなら、俺はこの異常な力をひた隠しにして、ただの村の子供として生きていく。三十四歳の魂にかけて、そう心に誓った。
だが、この時の俺はまだ知らなかったのだ。
運命というやつは、どれだけ隠そうとしても、残酷な形で俺の力を世界に暴き出すということを。
そして、俺の心の奥底にある『瞳の扉』を開ける鍵が、耐え難いほどの悲しみと喪失であるということも――。




