プロローグ:最終回のマウンドと、陽だまりの約束
『OUTSIDER 〜次元の姫と、どこにも居場所がなかった俺〜』
プロローグ:最終回のマウンドと、陽だまりの子守唄
俺の人生は、高校三年の夏、あのマウンドで完全に『ゲームセット』になっていた。
九回裏、二死満塁。スコアは同点。
俺の目は異常なほど良かった。ピッチャーの手から放たれるボールの縫い目が、まるでスローモーションのようにくっきりと見える「動体視力」。監督もチームメイトも、俺のその才能に期待していた。
だが、俺の『心』は最弱だった。
全員の期待を背負うプレッシャーに耐えきれず、俺の指先は震え、ボールはキャッチャーの遥か頭上を越える大暴投となった。サヨナラ負け。泣き崩れるチームメイトの輪に入ることすらできず、俺は逃げるように野球をやめた。
それから十六年。
深夜二時。淀川から吹き付ける五月の風は、ひどく生温かく、ドブのような匂いがした。
コンビニのレジ袋が、擦り減ったスニーカーの足元でカサカサと惨めな音を立てる。中に入っているのは、半額シールの貼られたのり弁と、一番安い発泡酒。それが、三十四歳フリーターの俺の「今日の価値」だった。
専門学校を卒業して、地元の広島から逃げるように大阪へ出てきて十四年。夢もない。誰からも期待されない。打席に立つのが怖くてバットを振るのをやめた、どうしようもない大人になっていた。
「……帰って、寝るか」
ため息と一緒に吐き出した独り言は、誰の耳にも届かない。
その時だった。
「やめて! 誰か、助けて……っ!」
静寂を引き裂くような、少女の悲鳴。
ビクッと肩が揺れる。暗い路地の奥で、大柄な男が制服姿の少女を無理やり壁に押し付けていた。
関わるな。面倒だ。俺なんかが行ったって、どうせ何もできない。
いつも通り見て見ぬふりをして、通り過ぎればいい。あのマウンドから逃げ出した時のように、今度も背を向ければいいじゃないか。
踵を返そうとした瞬間。
『――あんたの球は、真っ直ぐで気持ちがええねえ』
ふいに、遠い昔に死んだばあちゃんの声が、耳の奥で蘇った。
「……っ、クソッ、ああもう、クソッ!!」
気づけば、コンビニ袋を投げ捨てて駆け出していた。
自分でも驚くほど、足が前に出た。
「おい、離せよ!!」
「あぁ!? なんだてめ――」
男の胸ぐらを掴み、力任せにアスファルトへ引き倒す。
「逃げろ! 早く!!」
少女が泣き叫びながら大通りへ走り去るのを確認した。よし、これでいい。そう安堵した直後だった。
ドスッ。
鈍い音。腹の底に、焼け火箸を突っ込まれたような異常な熱さが走った。
男の手には、黒光りするサバイバルナイフが握られていた。
「あ……」
ごぼり、と口から鉄の味が溢れる。そのまま地面に崩れ落ちた。男が慌てて逃げていく足音が遠ざかる。
冷たいアスファルトの上へ、自分の血が真っ黒な染みとなって広がっていくのがわかった。
急速に体温が奪われていく。視界がぼやける。
脳裏をよぎったのは、強烈なまでの「後悔」だった。
親孝行の一つもできなかった。誰かを心の底から愛したこともなかった。何一つ成し遂げられないまま、最後もこんな路地裏で犬死にだ。
あぁ、もう一度だけ。もう一度だけでいいから、マウンドに立って、思い切り腕を振ってみたかったな……。
俺の視界は、完全な暗闇に飲み込まれた。
* * *
無音。果てしない闇。
痛みはもうない。自分が立っているのか、浮いているのかすらわからない。
「俺……死んだのか」
乾いた声が響いた瞬間、突然、足元の空間がスッと消え去った。
「うわあっ!?」
真っ逆さまに落ちる――と思いきや、体は長い「すべり台」のような斜面を猛スピードで滑り降りていた。
不思議と恐怖はなかった。冷たい大阪の空気から一転、どこか懐かしい、土と草の匂いが鼻をくすぐる。
トンッ、と柔らかい場所に着地した。
ゆっくりと目を開ける。そこは、見渡す限りに色とりどりの花が咲き乱れる、温かい陽だまりだった。
「……逃げずに、よう立ち向かったね。こっちおいで」
心臓が跳ねた。
振り返ると、そこにはシワくちゃの、だけど世界で一番優しい笑顔があった。
広島のド田舎で、両親が共働きだった俺を一番近くで育ててくれた、大好きなばあちゃんだった。
「ばあ、ちゃん……?」
気がつくと、三十四歳の俺は、なりふり構わず子供のように泣き崩れていた。
「ごめん……俺、ダメな大人になっちゃった……! 何から逃げてんのかもわかんなくなって、誰の役にも立てなくて……っ! ごめんなさい、ばあちゃん……!」
ばあちゃんは俺の前にしゃがみ込み、荒れた手で俺の背中をさすりながら、静かに鼻歌を歌い始めた。
『――ねんねん、おころりよ、明日はええ天気じゃけえ――』
少し調子外れで、どこか懐かしい、田舎の古い子守唄。
プレッシャーで押し潰されそうになっていた試合の前夜、いつもばあちゃんが歌って俺を落ち着かせてくれた、あのメロディだった。
その温かい旋律を聞いていると、ささくれ立っていた俺の心が、嘘のように解けていく。
「ええんよ。あんたはマウンドから逃げて、故郷からも逃げた。でも、最後の最後、あの子の命からは逃げんかった。……あんたはやっぱり、自慢の孫じゃ」
ばあちゃんは優しく涙を拭ってくれた後、俺の目を見て言った。
「あんたは目がええんじゃけえ、ボールの縫い目まで見えとったじゃろ? 心が逃げとっただけじゃ。……じゃけえ、もういっぺん、やり直してきんさい」
「やり直す……?」
「今度こそ、逃げずに投げ切りんさい。あんたのその真っ直ぐな目で、今度は『世界』を救う修行をしてきなさい」
ばあちゃんが、俺の背中を力強くポンッと叩く。
その瞬間、足元の花畑がまばゆい光を放ち、俺の体を包み込んだ。
ばあちゃんの子守唄の余韻と、花の香りが、光の向こう側へと溶けていく。
『ええか、今度こそ、あんたの全力を見せてやりんさいよ!』
次に感覚が戻った時。
俺は、誰かの腕の中に抱かれていた。
「――おお、見ろ! 息をしているぞ!」
「奇跡だわ……『魔瘴』の夜に生まれて、生き残るなんて……!」
聞いたことのない言語。だが、なぜか意味ははっきりと脳に直接響いてきた。
重い瞼をこじ開けると、そこには石造りの無骨な天井と、ランプの炎、そして涙ぐんで祈る見知らぬ男女の顔があった。
『オギャア、オギャア!』
俺の口から出たのは、紛れもない赤ん坊の産声だった。
同時に、窓の外から地響きのような巨大な獣の咆哮が轟き、石の壁がビリビリと震えた。
なんだここは。現代の日本じゃない。
平和とは程遠い、とんでもなくヤバい場所だ。
「あなた、この子……」
「ああ。こんな恐ろしい夜に生まれたのに、泣きもせずに真っ直ぐ俺たちを見てる。本当に、不思議で綺麗な瞳をした子だ」
父親らしき無精髭の男が、俺の顔を覗き込んで優しく微笑んだ。
その目はひどく疲労していたが、確かな愛情に満ちていた。
「名前、どうしましょうか」
「……『ルグ』。ルグはどうだろうか」
ルグ。
その響きに、俺の小さな体がピクリと反応する。
「古い神話に出てくる、光の英雄の名前さ。どんな巨大な絶望を前にしても決して逃げず、たった一投の石で魔の巨人を打ち倒したっていう……希望の光だ」
男の太い指が、俺の小さな頬をそっと撫でる。
「ルグ。どうかこの残酷な世界で、お前が誰かを照らす『光』になれますように」
(たった一投の石で……。ばあちゃん、まるで俺にピッタリの名前じゃないか)
俺の胸の奥に、前世では決して灯ることのなかった熱い炎が宿る。
やってやる。
今度こそ絶対に逃げない。もう二度と、後悔するような生き方はしない。
ばあちゃんの子守唄を心に刻み、俺――ルグの「二度目のプレイボール」が始まった。




