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最初の獲物と、路地裏の処刑人

シオンの地下礼拝堂で泥のような眠りから目覚め、二週間が過ぎていた。


その間、シオンは自らの命を削る禁術を隠したまま、俺たちの体を治癒し続けた。彼の魔法と、毎日無造作に振る舞われる塩辛いスープのおかげで、俺の肺を突き刺していた肋骨は完全に癒着し、アイシャのマナ回路も劇的な安定を取り戻していた。

だが、ここは慈善の行き届いた孤児院ではない。世界から見放された吹き溜まり、無法都市カルマだ。食料を買うにも、シオンが俺たちのために消費する高価な薬草の代金を工面するにも、血塗られた貨幣が必要だった。


「……というわけで、君たちの『初仕事』だ」


薄暗い地下室。煤けた木のテーブルの上で、シオンは安煙草の紫煙を気怠げに吐き出しながら、一枚の羊皮紙を指先で弾いて俺たちの前に滑らせた。


「『赤犬あかいぬ一家』。最近、カルマの第三区画を根城にしてるゴロツキの集まりだ。違法薬物の密売、臓器売買、孤児の拉致……。まあ、この街の基準で見ても『掃除すべき汚物』だよ。首領の懸賞金は銀貨五枚。末端のクズ共の首も合わせれば、金貨一枚分にはなる」


手配書には、顔の右半分が醜く焼け爛れ、三白眼をぎらつかせた巨漢が粗い線で描かれていた。

俺は手配書をじっと見つめ、脳内で情報を噛み砕く。三十四歳の社畜時代、終わりの見えない炎上プロジェクトを「タスク」として解体し、無能な上層部の首を(比喩的に)切り落としてきた俺の脳髄が、今度は「物理的な殺戮」のための最適解を高速で弾き出していく。


「俺たちに、こいつらを狩ってこいってことか」

「強制はしないよ。ただ、君たちが本気で王都の喉首を掻き切るつもりなら、まずはこの掃き溜めで『誰も手出しできない怪物』として名を売る必要がある。……できるかい? 相手は十人以上の、刃物と薬物でイカれた大人だ」


シオンの翡翠の瞳が、面白がるように、それでいて保護者としての深い懸念を孕んで俺を射抜く。

俺は小さく鼻で笑い、手配書を無造作に折りたたんで懐にねじ込んだ。


「……舐めるな。死ぬのは俺たちじゃない。アイシャ、行くぞ」

「うん。ルグが望むなら、私はなんだって斬るよ」


アイシャは迷いなく立ち上がった。八歳の華奢な体が、シオンが「護身用」と言って与えた少し錆びた鉄の短剣を腰のベルトに差し込む。そのサファイアブルーの瞳には、一切の感情がない。ただ、俺の命令を待つ冷徹な「刃」そのものだった。


地上へと続く、カビと湿気の匂いがこびりついた石階段を登る俺たちの背中を、シオンは壁に寄りかかったまま見送っていた。

無理もない。六歳と八歳の子供が、自ら武装したギャングの屠殺場へ歩いていくのだ。


「……死ぬなよ、チビ共。スープが冷める前に帰ってこい」


背後から届いたその不器用な声に、俺は一度だけ手を挙げて応え、鉄の扉を押し開けた。


カルマの第三区画。地下深くを通る廃棄された巨大な下水処理場跡。

ヘドロと排泄物の腐敗臭が充満し、肺の奥にへばりつくような不快な湿気が立ち込めるその場所が、「赤犬一家」のアジトだった。


俺たちは処理場の入り口を見下ろす、天井付近の錆びた鉄骨の隙間に、息を殺して潜んでいた。

『黄金のアウレウス』を、静かに発動させる。


――カチリ、と。世界から一切の色彩が抜け落ち、絶対的な琥珀色の静寂が訪れる。


分厚いコンクリートの壁の向こう側、十五人の男たちの熱源、脈拍、そして荒々しいマナの波長が透けて見える。

大半が粗悪な酒と薬物を煽っているのか、脳内の血流が異常に速く、動きは緩慢で隙だらけだ。


「ルグ、どうする? 私が正面から入って、五秒で全員の首を落としてこようか?」

アイシャが、感情の抜け落ちた平坦な声で提案する。


「いや、多勢に無勢だ。お前の『氷の魔法剣』は強力だが、この狭く入り組んだ閉鎖空間で囲まれれば、死角からの一撃を食らうリスクが跳ね上がる。……アイシャ、お前の肌に一筋でも傷がつくのは、俺の『プロジェクト(計画)』には入っていない」

「……うん。ルグがそう言うなら、私は待つよ。ルグの言葉が、私の世界のすべてだから」


俺は腰のポーチから、シオンの工房で「拝借」してきた道具を取り出した。

極細だが人間の首の骨すら断ち切る『強化鋼線』。そして換気用のダクトに仕込む『強力な発火粉』と、鼻粘膜を焼き切る『催涙性の毒薬』。


三十四歳の「盤面整理」の知略と、この『黄金の瞳』による絶対的な空間把握能力。

風の流れ、壁の脆い部分、敵がパニックになった際に真っ先に駆け込むであろう退路の動線。それらすべてが、金色の数式となって俺の脳内に表示される。

俺にとって、この戦場は命のやり取りではない。ただの「効率的な害虫駆除のフローチャート」だ。


「アイシャ、三分だけ待て。俺が『屠殺場』のセッティングを終わらせる。お前は、俺の合図で動け」


俺は音もなく鉄骨を伝い、六歳の小さな体躯を活かして通気口や配管の隙間を這い回り、アジトの周囲に死の罠を張り巡らせた。

出口へと続く最も広い通路には、首の高さと足首の高さに鋼線を幾重にも交差させて張る。

最後に、アジトの中央で回っている巨大な換気扇の動力部に、発火粉と毒薬を混ぜた袋を仕掛けた。


――準備完了セットアップ・コンプリート


俺は再び高所へ戻り、拾い上げたボルトの破片を、換気扇の歯車に向かって正確無比に弾き飛ばした。


キンッ!!

火花が散り、仕掛けた発火粉に引火する。――ドォォォォンッ!!

小規模だが強烈な粉塵爆発がアジト内部の酸素を一気に奪い、毒を含んだ黒煙が爆風となってゴロツキたちを飲み込んだ。


「な、なんだぁっ!? 爆発だ!」

「目が、目がァッ! 火事だ! 出口へ向かえ!!」


怒号と悲鳴が反響し、煙と毒に巻かれたゴロツキたちが、咳き込みながら唯一無事に見える「広い退路」へと先を争って殺到する。

だが、そこには俺が張った、目に見えないほど細く強靭な鋼線の網が待ち受けていた。


「ギ、ギャアァァッ!?」

先頭を走っていた数人が、鋼線に首を、腕を、胴体を深く食い込ませる。自らの走る勢いと体重で、肉がバターのように裂け、動脈から血の噴水が吹き上がる。


「罠だ! 敵襲だ!! 止まれ、前に出るな!! どこだ、どこからやりやがったガキィ!!」

手配書にあった顔の焼け爛れた首領が、血まみれの巨大な肉切り包丁を振り回しながら、血走った目で周囲の闇を睨みつける。

視界を奪われ、出口を封じられ、仲間がミンチになっていく。完全に統率を失った哀れな獣の群れだ。


「……今だ、アイシャ。一匹残らず刈り取れ」


俺が冷酷に囁いた瞬間。

天井の暗闇から、一筋の『白銀の閃光』が音もなく舞い降りた。


「なっ――子供、だと……!?」


ゴロツキの一人が絶句した直後。

アイシャの手にある錆びた短剣が、眩い白銀のマナを異常な密度で纏い、一瞬にして身の丈を超える『極氷の刃』へと顕現した。


――シュッ。


風を斬る音すら置き去りにする、異界の剣聖の神速の踏み込み。

アイシャが男たちの間を「点」で移動するようにすり抜けた瞬間、三人の男の首が、凍りついたまま宙を舞った。

断面から吹き出す血しぶきさえも、空中で赤い氷の粒となってパチンと弾け飛ぶ。


「ヒッ……!? なんだ、なんなんだこのバケモノは……っ!」


「オラァッ! 舐めるなァッ!!」

首領が恐怖を狂気で塗り潰し、アイシャの背後から肉切り包丁を全力で振り下ろす。

だが、俺の『黄金の瞳』は、四秒先の包丁の軌道を完璧に可視化していた。


「アイシャ、右斜め後方。三十度。下段から掬い上げ、そのまま手首を狙え」

「うん」


アイシャは振り向くことさえせず、ルグの言葉を絶対の神託のように受け入れ、手首を返した。

パキンッ!!

首領の重厚な刃が、アイシャの絶対零度の氷刃に触れた瞬間、紙細工のように粉々に砕け散る。


「あ……?」

呆然と自らの手を見つめる首領。その隙を、俺が見逃すはずがない。


「次、そのまま左へ一歩踏み込み、喉笛を突け」


「シッ!」

短い呼気と共に、アイシャは無慈悲に踏み込み、その白銀の刃を巨漢の喉仏のド真ん中へ突き立てた。


「ア……ガ、ボ…………」

氷が男の頸動脈から全身の血管へと逆流し、内側から臓器を凍てつかせていく。

巨体がドス黒い氷像となって崩れ落ちると同時に、完全な死の静寂が、下水処理場を包み込んだ。


開始から、わずか数十秒。

十五人いた「赤犬一家」の構成員たちは、ただの「凍りついた肉塊」と成り果てていた。


「……終わったよ、ルグ。お掃除、完了」


血と氷の欠片が散らばる地獄の中心で、アイシャが息一つ乱さずに振り返る。

その美しい白銀の髪にも、陶器のような肌にも、返り血一滴すらついていない。ただ、手にした氷の剣だけが、男たちの絶望と命を吸って妖しく輝き、やがて空気中に溶けて消えた。


「よくやった。指示通りの完璧な動きだった」

俺は鉄骨から飛び降り、アイシャの元へと歩み寄った。


惨殺死体の山を前にしても、俺の心に罪悪感などは微塵も湧かなかった。

平和な現代日本で培われたはずの倫理観は、とうの昔に死の森に捨ててきた。この狂った世界で『アイシャと共に生き残り、家族を取り戻す』という絶対的な目的の前に、ゴミの命など一顧の価値もない。


俺たちは無造作に、凍りついた首領の懐から金貨と銀貨の入った袋を引きずり出した。


「さて……これで、今夜はシオンのあの塩っ辛いだけのスープじゃなくて、まともな肉が食えるな。あと、あいつの好きな安煙草も一つ買ってやろう」

「ふふっ。ルグ、シオンに聞かれたら、またおでこ弾かれちゃうよ」


血と死の異臭が漂う惨劇の真ん中で、六歳の少年と八歳の少女が、無邪気に手を取り合ってクスクスと笑い合う。


その異常極まりない光景を。

アジトの外、崩れた壁の影に隠れて見ていたシオンは、火をつけることすら忘れた煙草を指に挟んだまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「……冗談だろ。……なんだよ、あれ」


シオンの翡翠の瞳には、かつて王都の騎士団で見聞きしたどんな戦士の戦闘よりも恐ろしく、そして美しい『完成された暴力と支配』が映っていた。

ただの子供の暗殺ではない。完全に盤面を支配するルグの知略と、一切の感情を排してそれを実行するアイシャの武力。


「……ははっ。こりゃあ、とんでもない死神の首輪を握っちまったな」


シオンは指先で煙草を揉み折ると、ゾッとするような、それでいて暗い歓喜に満ちた笑みを浮かべた。自らの腕に、総毛立つような鳥肌が立っているのがわかる。


「王都の白豚ども……首を洗って待ってな。お前たちが創り出した地獄から、神様すら殺せる本物の『バケモノ』が生まれちまったぜ」


この日を境に。

無法都市カルマの裏社会に、正体不明の『白銀の死神』と『黄金の悪魔』と呼ばれる、最凶の子供たちの噂が、猛毒のような速さで広まり始めることとなる。

それは、世界を揺るがす壮絶な反逆劇の、ほんの小さな産声に過ぎなかった。

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