二つの夢と、異界の剣聖
(……ここは……)
夢の中で、俺は『前の世界』にいた。
コンクリートの照り返しが網膜を焼く、日本のありふれた交差点。排気ガスと、誰かが吐き捨てたガムの匂い。三十四歳の、どこにでもいるしがないサラリーマンだった頃の俺だ。
信号待ちの群衆の中で、他人の肩とぶつかっても誰も謝らない。俺の心は常に空洞だった。意味のない数字を追うだけの仕事、表面上の作り笑い、誰かに必要とされることもなく、ただ酸素を消費して摩耗していくだけの無菌室のような日々。
『……ルグ』
不意に、底なしの沼から響くような声がした。
振り返った瞬間、コンクリートの街並みが、薄氷のようにパリンッと砕け散った。
一瞬にして視界を埋め尽くしたのは、鬱蒼とした死の森と、太陽に焼かれた赤茶けた荒野。
むせ返るような鉄と臓物の匂い。足元には、腹を裂かれて血だらけで倒れるギランじいさんの骸。そして遠くからは、俺の幼名を叫びながら王都の騎士団に引きずられていく父さん(ガルド)の悲痛な声が響き渡る。
俺の体は、シワの寄った三十四歳のスーツ姿から、泥と血と汗に塗れた六歳の少年の肉体へと変わっていた。ひどく小さく、無力で、殴られれば簡単に死んでしまう脆弱な器。
(……ああ、そうだ。俺はもう、あの空っぽの世界にはいない)
圧倒的な暴力と理不尽が支配する、狂った異世界。
だが不思議なことに、今の俺の魂には、三十四年間で一度も感じたことのない、マグマのような強烈な「熱」が宿っていた。
守るべき者がいる。絶対に殺してやりたい敵がいる。
この脆弱な手の中には、俺にすべてを委ねて眠る少女の確かな『命の重み』がある。
空っぽだった俺を、この世界が「人間」にしてくれた。
ならば、俺の『黄金の瞳』は、もう絶対に現実から逃げない。この狂った世界の理をすべて根底からぶち壊してでも、俺は俺の家族を取り戻す。
俺は夢の中で、爪が手のひらに食い込んで血が滲むほど、力強く拳を握りしめていた。
一方、同じベッドの片隅で、俺の服の裾を握りしめて丸まっていたアイシャもまた、深く冷たい夢の底を彷徨っていた。
(……剣が、重い……)
アイシャの夢は、白銀のマナが舞い散る美しい戦場から始まった。
この世界とは違う、星の並びも空の色も異なる別の次元。
そこで彼女は、一族の悲願である『剣聖』の名と技を受け継いだ、最強の戦士だった。
彼女の放つ白銀の剣閃は、あらゆる魔を祓い、国を守る絶対の盾であった。誇り高き魂と、誰もがひれ伏す圧倒的な力。何万という民の命を背負い、ただひたすらに剣を振るう孤高の人生。
だが、その栄光は唐突に、そしてあまりにも理不尽に終わりを告げた。
ある日、彼女の頭上の空が「物理的に」真っ二つに割れたのだ。
『――【神の器】よ。我が次元へ降臨せよ――』
それは、次元の壁を無理やりこじ開けた、王都の宮廷魔導師たちによる「強制召喚」だった。
黒い泥のような呪縛が空から降り注ぎ、抗う間もなく、アイシャの『魂』だけが肉体から生きたまま引き剥がされる。全身の皮を剥がれるような絶絶を伴いながら、彼女は次元の渦へと吸い込まれた。
次に目を覚ました時、彼女は吐き気を催すような糞尿の悪臭が漂う、地下牢の鉄檻の中にいた。
『なんだこれは? 霊体ではなく、魂だけを引き抜いてしまったのか! 術式が不完全だ!』
『ええい、構わん! ちょうど流行り病で死にかけている奴隷のガキがいる。あの肉体に無理やり押し込め!』
王都の魔導師たちの狂った儀式。
剣聖であった彼女の巨大で純度の高い魂は、スラムで買われ、泥水を啜って生きてきた「名もなき八歳の奴隷の少女」の肉体へと、太い呪いの杭で無理やり縫い付けられた。
それが、本当の地獄の始まりだった。
次元の違う強大な魂に、病に侵された子供の肉体が耐えられるはずがない。
世界そのものが彼女を「異物」として拒絶し、白銀のマナが暴走して、未発達な臓器や血管を内側からズタズタに引き裂いていく。息をするだけで、喉から火を噴くような激痛が走った。
『失敗作だ。マナの波長が合わず、肉体が崩壊していく。これでは【神を降ろす器】には到底使えん』
『チッ……処分しろ。生きたまま死の森の実験場に放り出しておけ』
誇り高き剣聖であった彼女は、剣を握ることも、自分の足で立ち上がることもできないボロボロの肉体に閉じ込められ、ただ死を待つだけの「廃棄物」として捨てられた。
(……痛い。苦しい。……私は、誰? 私の剣は、どこにあるの……?)
暗闇の中で、彼女の強靭な魂は少しずつ摩耗していった。
誇りも、かつての記憶も、何もかもが病の苦痛によって塗り潰されていく。
冷たい石の床の感触。響く足音に怯え、看守から投げ与えられた腐った残飯を泥ごと啜るだけの日々。
ああ、私は剣聖なんかじゃない。ただの、汚い奴隷の欠陥品だ。
誰か。誰か、お願いだから私を殺して。
絶望の淵で、彼女の意識が完全に闇に沈みかけた、その時だった。
『――おい、生きてるか?』
暗闇を切り裂くように、黄金の光が差し込んだ。
見上げると、そこには自分と同じようにボロボロの服を着た、信じられないほど小さな男の子が立っていた。
その瞳は、この世界のどんな宝石よりも強く、真っ直ぐな黄金色に輝き、世界の理のすべてを見透かしているかのように澄み切っていた。
『俺はルグ。……一緒に、逃げよう』
その小さな手が、泥まみれで震える彼女の手を力強く握りしめた。
その瞬間、永遠の凍土のように凍りついていたアイシャの魂に、再び爆発的な火が灯ったのだ。
(あぁ……見つけた。私の、本当の主を)
この手だけは、絶対に離さない。私を「廃棄物」ではなく「人間」として見てくれた、この黄金の瞳を持つ少年のために、私はもう一度、剣を握る。
『……ルグ……!』
「――っ!」
アイシャは弾かれたように目を覚ました。
頬には、熱い涙が止めどなく伝っていた。
「……夢……」
寝汗で張り付いた前髪を避けながら周囲を見渡すと、そこは薄暗くも清潔な地下礼拝堂のベッドだった。
隣を見ると、ルグが穏やかな寝息を立てている。その小さな手は、眠りながらもアイシャの服の裾を、絶対に離さないとばかりにしっかりと握りしめていた。
「ルグ……」
アイシャは愛おしそうに目を細め、ルグの手に自分の手をそっと重ねた。
病魔によるあの地獄のような痛みも、世界から拒絶されるような息苦しさも、今はもうない。霊獣の血が、彼女の異世界の魂と、この肉体を完全に適合させてくれたからだ。
「……起きたのかい、お姫様」
部屋の隅にある書物机から、シオンが静かに声をかけた。
手元のランプの灯りだけで、分厚い魔導書を読み解いている。その長い銀灰色の前髪の隙間から覗く翡翠の瞳は、アイシャを静かに、そして鋭く観察していた。
「……シオン、先生」
「先生はやめてくれよ。ただのモグリの医者さ。……体の具合はどう? まだマナの暴走は感じるかい?」
アイシャは首を横に振り、自らの胸に手を当てた。
心臓の鼓動が、力強く、静かに波打っているのがわかる。
「いいえ。……ルグが、私をこの世界に繋ぎ止めてくれたから。シオンが、私を治してくれたから。……もう、大丈夫」
「そうか」
シオンは少しだけ安堵の息を吐くと、パタンと分厚い魔導書を閉じた。そして、医者としての冷静な声で告げる。
「君の体の中の『魔力回路』を見た時、背筋が凍ったよ。君は明らかに、この世界の住人じゃない。魂の密度が異常すぎる。……王都の狂った連中が、また次元の扉をいじくり回した結果の被害者だろう? 無理やり別の次元から魂を引っこ抜いて、その小さな器に閉じ込めたんだ」
アイシャは少し驚いたようにシオンを見たが、やがて静かに、諦観を含んだ瞳で頷いた。
「私のいた世界では……私は剣を振るうことしか知らない、ただの戦士だった。国を守るためだけの道具だった。でも、今の私は違う」
アイシャは、まだ眠り続けるルグの寝顔を見つめながら、刃を研ぐような冷たく澄んだ声で言った。
「私は、ルグの剣。ルグが私に、新しい命と、初めての『居場所』をくれた。だから私は、彼を悲しませるすべてを斬り裂く。たとえそれが、王都の軍隊でも、この世界の理でも、神様でも」
その小さな八歳の少女の体から放たれた、ゾッとするほど研ぎ澄まされた純度の高い殺気。
それは、裏社会で血の雨を浴びて生きてきたシオンでさえ、思わず息を呑むほどの重圧だった。
シオンは目を丸くした後、肩を揺らしてクックックと声に出して笑い出した。
「ははっ、こりゃ驚いた。君たち二人、本当に六歳と八歳の子供なのか? ……まあいい。そういうイカれた覚悟を持った奴、僕は嫌いじゃない」
シオンは椅子から立ち上がり、ベッドの側に近づくと、二人の頭をまとめてポンポンと乱暴に撫でた。
「君たちの事情は、大体わかったよ。……王都の喉首を掻き切るためにも、君たちは生き残って、もっとバケモノにならなきゃいけない。僕の莫大な治療費を払ってもらうためにもね」
ルグが微かに身じろぎをして、アイシャの手にすり寄る。
アイシャはふわりと、年相応の無邪気で柔らかい笑みを浮かべた。
「うん。……よろしくね、シオン」
交わるはずのなかった三つの魂。
過去の絶望を背負い、王都への凄絶な復讐を誓う彼らの、血みどろで温かい無法都市での日々が、ここから本格的に始まろうとしていた。




