第3巻:無法都市と、異端の治癒術師
第1章:煙と欲望の街、そして堕ちた聖者
肺の奥で、血の味が爆ぜた。
死の森を抜け、太陽に焼かれた赤茶けた荒野を三日三晩、這うようにして歩き続けた。
じいさんが命と引き換えに稼いでくれた時間。背中で浅い息を繰り返すアイシャの重みだけが、俺がこの狂った世界に繋ぎ止められている唯一の証だった。
やがて視界の先に、大地をえぐる巨大な峡谷が現れた。
その谷底にへばりつくようにして、鉄屑と廃材、そして赤黒いレンガで違法増築を繰り返されたバラック群が、まるで巨大な腫瘍のように膨れ上がっていた。
空を覆い隠すほどの毒々しい黒煙。むせ返るような安酒と香辛料、下水道の悪臭、そして微かな腐肉と血の匂いが、生ぬるい熱風に乗って鼻腔を容赦なく犯してくる。
王都の法が一切届かない、犯罪者と脱走奴隷、そして世界から見捨てられた者たちの終着駅――『無法都市・カルマ』。
「……着いたぞ、アイシャ」
俺は背中でぐったりと首を揺らす小さな体に、掠れた声で呼びかけた。
だが、返事はない。彼女の体は燃え盛る炭火のように熱く、時折ひきつけを起こしたように小刻みに震えている。
無理もない。いくら『剣聖』の力を取り戻したとはいえ、彼女の肉体はまだ八歳の子供なのだ。あの死の森で、重装兵たちを無音で斬り裂いた「氷の魔法剣」の反動。急激なマナの枯渇と反動が、彼女の未成熟な臓腑を内側からズタズタに引き裂いていた。アイシャの肌から無意識に漏れ出す白銀のマナが、俺の背中の汗を凍りつかせ、激痛を麻痺させている状態だ。
(くそっ……俺の『黄金の瞳』じゃ、マナの狂った奔流を視ることはできても、アイシャの命を繋ぐことはできない……!)
折れた肋骨が、歩くたびに肺を突き刺す。三十四歳の精神力をもってしても、六歳の栄養失調の肉体はとうに限界を迎え、視界の端が黒く明滅していた。
俺は奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、カルマの薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
ここは地獄の底だ。すれ違うのは、顔の半分が焼け爛れた傭兵、怪しげな粉を売り歩く娼婦、そして物陰から俺たちを品定めするように睨みつける、飢えた野犬のようなスラムの住人たち。
ボロボロの服を着た六歳のガキが、白銀の髪を持つ美しい少女を背負って歩いている。彼らにとっては、歩く金貨の袋にしか見えないだろう。
「おい、そこの坊主」
不意に、泥と吐瀉物にまみれた路地の奥から、三人の男たちが立ち塞がった。
手には刃こぼれした肉切包丁や、血と錆のこびりついた鉄パイプ。焦点の合わない濁った瞳孔と、異常に興奮した荒い鼻息。明らかに粗悪な違法薬物をキメていた。
「その背中の上玉、俺たちに売らねえか? 今なら銀貨一枚……いや、銅貨三枚で買ってやるぜ。生きてりゃ高く売れるし、死んでたって『臓器』は使えるからなァ!」
「……退け。三秒だ」
俺は極限まで低い声で威嚇し、腰のポーチから「最も鋭く尖った石」を取り出した。
――静かに、黄金の瞳を発動させる。
世界から色彩が消え、琥珀色の静寂が訪れる。
男たちの筋肉の収縮、頸動脈を流れる血の音、そして防御の隙間である「死角」が、金色の線となって視界に浮かび上がった。
殺せる。相手が大人三人だろうと関係ない。今の俺なら、一瞬の瞬きの中で、三人の喉笛に石を撃ち込み、確実に命を刈り取れる。
だが、ここで殺し合いをすれば、確実に追及の手が伸びる。アイシャを治療する前に、俺の体が崩壊する。
男たちがニヤニヤと下劣な笑いを浮かべ、殺意と共に刃物を振り上げた――その時だった。
「――はいはい、そこまで。その子たちは僕の『予約患者』だよ」
頭上の錆びた鉄パイプの足場から、場違いなほど通る、心地よい声が降ってきた。
見上げると、そこには一人の長身の人物が立っていた。
歳は十九歳くらいだろう。
かつては王都の高位神官が着ていたであろう純白の法衣。それが今では煤と泥で黒く染め上げられ、ボロボロのローブとして纏われている。
目元が隠れるほど長い銀灰色の前髪。その隙間から覗く、翡翠のように深く澄んだ緑色の瞳が、冷徹な観察者のように俺たちを見下ろしていた。
口元には安物の煙草が咥えられ、紫色の煙が細く立ち上っている。男とも女ともつかない中性的で退廃的な顔立ちだが、その立ち姿には、スラムのゴロツキなど足元にも及ばない「本物の死線」を越えてきた者特有の、圧倒的な凄みがあった。
「ああん? なんだテメェ、教会の崩れが俺たちのシノギに口出してんじゃ――」
男の一人が青筋を立てて怒鳴り声を上げた途端。
「『聖句・第一節』」
十九歳の青年――シオンが、煙草をふかしたまま、気怠げに指をパチンと鳴らした。
詠唱などない。ただの指鳴らし。
その瞬間、男たちの頭上の大気が「ギシッ」と悲鳴を上げた。
目に見えない強烈な重力の壁が上空から叩きつけられ、男たちの体を石畳にメリメリと陥没させたのだ。
「ガハッ……!? ぐぁあああっ! な、なんだこれ、骨が……っ!」
「ヒッ……! 無詠唱の、上位神聖魔法!? まさかテメェ、噂の『異端の……』」
「……失せな。次は内臓をすり潰すよ」
シオンが氷のように冷たく見下ろすと、男たちは這いつくばったまま失禁し、悲鳴を上げながら路地の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った路地裏で、シオンは鉄パイプから音もなく飛び降りた。
近づいてくると、安い煙草の匂いの奥から、古い教会で焚かれるような清浄な乳香と薬草の香りがした。
「君、すごいね。たった六歳くらいなのに、さっき本気で彼らの頸動脈を石で撃ち抜こうとしてただろ? それも、寸分の狂いもない完璧な殺意で」
「……お前、何者だ。王都の教会の人間か?」
俺が石を握り直したまま後ずさると、シオンは困ったように長い銀灰色の髪を掻き回した。
「警戒しないでよ。僕はシオン。この街でモグリの医者をやってる、ただの堕ちた神官さ」
シオンは俺の背中で苦しむアイシャを覗き込み、その翡翠の瞳を細めた。
先ほどの冷酷な眼差しは嘘のように消え去り、そこにあったのは、どこまでも深く、命を慈しむ「本物の医者」の目だった。
「ひどいマナ枯渇と、尋常じゃない魔力回路の断裂だ。……それに君。肋骨が三本折れて、うち一本は肺に刺さりかけてる。おまけに極度の栄養失調と疲労のピーク。よくその状態で、背中の子を一度も落とさずにここまで歩いてきたな」
シオンは煙草を携帯灰皿に揉み消すと、俺の目線に合わせてゆっくりとしゃがみ込んだ。
「この街じゃ、まともな薬は手に入らない。教会のクソみたいな神官どもは、金貨を山ほど積まないと、回復魔法の光すら見せてくれないよ」
「だったら、どうしろって言うんだ。……俺には、金はない。払えるものなんて何もないぞ」
「金なんていらないよ。その代わり――」
シオンはニッと、年相応の少し悪戯っぽい、太陽のような笑顔を見せた。
「君たちがどうやって、そんな『規格外の呪い』と『神の理を視る目』を抱えたまま、あの狂った王都の連中から逃げ延びてきたのか……そのとびきり面白いおとぎ話を聞かせてよ。僕も、あの王都の白豚どもには、吐き気がするほど恨みがあるからさ」
薄暗く、悪臭の漂う路地裏。
差し出されたのは、ひどく大きくて、無骨で、白い手。
それは、ギランじいさんを失い、絶望と警戒だけで世界を睨みつけていた俺にとって、この異世界で初めて触れる「理屈のない大人の優しさ」だった。
三十四歳の魂が、六歳の弱り切った肉体の中で、不覚にも泣きそうになるのを必死に堪える。
俺は少しだけ躊躇した後、握りしめていた石を落とし、その手を力強く握り返した。
泣きたくなるほど、温かい手だった。
「……俺はルグ。こっちはアイシャだ。……助けてくれ、あんたのその力で」
「ああ、任せな。僕の『命』に代えても、君たち二人を死なせやしないよ」
何気なくシオンが口にしたその誓いが、数年後、残酷な真実となって俺たちに絶望をもたらすことなど、この時の俺は知る由もなかった。
こうして、血よりも濃く、鋼よりも固い絆で結ばれることになる「三人の家族」の物語が、黒煙に包まれた無法の街の片隅で、静かに幕を開けたのだ。




