第1話 俺のことが世界で一番嫌いな女
この学校には、“高嶺の花”と呼ばれる美少女がいる。
男子なら、ほぼ全員が一度は彼女に恋をする。
けれど、その恋が叶うことはない。
誰もが彼女との圧倒的な差を思い知らされ、やがて恋を諦め、別の女子へ目を向ける。そして告白し、新たな恋を始めるのだ。
つまり――。
この学校に存在するほぼすべてのカップルは、男子が彼女を諦めたことで誕生していると言っても過言ではない。
そんな数多の恋を終わらせ、同時に新たな恋を生み出してきた、学園一の高嶺の花。
姫城菜乃花。
そして、俺――八王子悠介にとって、彼女は。
この世界で最も大嫌いな女だった。
なぜ、そこまで嫌っているのかって?
理由は簡単だ。
向こうも、俺のことが大嫌いだからである。
姫城は普段、ほとんど男子と話さない。
いつも決まった女友達と一緒にいて、男子から声をかけられても、必要最低限の言葉しか返さない。
笑顔を向けることなど、まずない。
それなのに――。
なぜか俺にだけは、毎回毎回、陰湿なちょっかいをかけてくるのだ。
忘れもしない。
あれは、中学時代のバレンタインだった。
「おい、八王子! お前の靴箱にチョコ入ってたぞ!」
クラスメイトからそう聞かされた俺は、全速力で昇降口へ向かった。
俺の人生で初めてのバレンタインチョコ。
廊下を駆け抜けながら、頭の中ではすでに、まだ見ぬ女の子との甘酸っぱい青春が始まりかけていた。
靴箱に手紙が入っていて。
放課後、誰もいない校舎裏へ呼び出されて。
そこで、頬を赤く染めた女の子から――。
『ずっと前から好きでした』
なんて言われてしまったりして。
ついに俺にも春が来た。
そう思っていた。
しかし――。
昇降口へ到着した俺が目にしたのは、思い描いていた青春とはかけ離れた光景だった。
ボリッ。
ボリボリボリ……。
「…………」
俺の靴箱の前で、誰かがチョコレートを食べている。
艶やかなピンク色の髪を揺らしながら、そいつはゆっくりとこちらを振り返った。
姫城菜乃花だった。
姫城は俺の顔を見るなり、フッと鼻で笑った。
「……これ、全然おいしくないよ?」
「…………は?」
それから、手元に残ったチョコを悔しそうに見つめ、小さな声で呟いた。
「……失敗作ね」
何が失敗作だ。
お前が作ったわけでもないくせに、人がもらったチョコを勝手に品評するんじゃない。
俺が呆然としている目の前で、姫城は最後のひとかけらまで口へ放り込んだ。
そして空になった包み紙を、俺の靴箱へポイッと投げ入れる。
そのまま何事もなかったかのように、教室へ戻っていってしまった。
「…………」
しばらく動けなかった。
我に返った俺は、慌てて靴箱を開け、捨てられた包み紙を確認した。
ひとかけらくらい残っているかもしれない。
もしかしたら、食べかすだけでも――。
そんな淡い期待を抱いていたのだが。
「……何もねぇ」
欠片どころか、チョコの粉すら残っていなかった。
絶対に俺には食べさせない。
空っぽの包み紙から、そんな強固な意志さえ感じられた。
「…………」
俺の人生で初めてもらったバレンタインチョコ。
その味を確かめることもできないまま、あいつは俺の目の前ですべて食いやがったのだ。
――食い物の恨みは、一生忘れない。
(許さねぇ……。絶対に許さねぇぞ、姫城……!)
今思い出しても腹が立つ。
しかも翌日には、
『姫城菜乃花がゴミを捨てた靴箱』
という、どうしようもない噂まで広まっていた。
その日を境に、俺の靴箱には丸められたプリントや空き袋、消しゴムのカスなど、さまざまなゴミが捨てられるようになった。
誰だよ、ここを本物のゴミ箱だと思ったやつ。
笑い話のように聞こえるかもしれない。
けれど、当時の俺はまだ中学生だ。
毎朝、今日は何が捨てられているのだろうと怯えながら靴箱を開ける日々に、俺は本気で傷ついていた。
(泣きながら帰った記憶まである。断じて、いい思い出ではない)
最初は、誰か一人の悪ふざけだったのだろう。
けれど、それを面白がって真似する連中が、少しずつ増えていった。
靴箱へゴミを入れられるだけだった嫌がらせは、やがて教室でも続くようになった。
笑われる。
からかわれる。
何をされても、「冗談だろ」の一言で片づけられる。
そうしていつの間にか、ただの“イジリ”が、“いじめ”へ変わり始めていた。
もっとも、その嫌がらせは数日後、なぜかぱったりと止んだのだが。
それでも、俺の中に残ったものまでは消えなかった。
目立つと、ろくなことが起きない。
余計なことには関わらず、静かに過ごしたほうがいい。
俺が平穏な毎日を望むようになったのは、あのころからだった。
とにかく。
姫城との因縁は、それだけではない。
テストが返却されるたび、その日の夜にわざわざ、
『何点だった?』
とメッセージを送ってくる。
無視するのも癪なので点数を教えてやると、
『私の勝ち。九十八点』
たったそれだけを返してくるのだ。
(いちいち勝負を仕掛けてくるんじゃねぇよ……!)
しかも、その日のクラス最高点は九十八点だったらしい。
(こいつ……絶対に自分が勝てると確信してから聞いてきたな?)
勝てる戦いしか挑まない。
なんて卑劣な女だ。
ある日、妹が学校まで弁当を届けてくれたときもそうだった。
姫城は妹の顔と弁当を交互に見つめたあと、いつものようにフッと鼻で笑った。
「あんたには、あんな可愛い子、似合わないからやめておいたほうがいいよ?」
何をやめたほうがいいんだ。
そもそも、あれは俺の妹だ。
しかし、わざわざ説明してやる義理もない。
妹を俺の彼女と勘違いしたうえに、俺には不釣り合いだと勝手に決めつけやがった。
その言い草が気に入らなかった俺は、姫城にも聞こえるよう、弁当を大げさに褒めてやった。
「うまい! なんてうまい料理なんだ! やっぱり将来は、料理のできるお嫁さんがいいよな!」
「お、お兄ちゃん! 教室で変なこと言わないでよ!」
妹は顔を真っ赤にして、俺の肩をポカポカと叩いてきた。
だが、そんなことはどうでもいい。
これで妹の名誉も守られただろう。
ところが、その翌日。
姫城は、なぜか二つの弁当箱を持ってきた。
昼休みになると俺の席までやってきて、片方をずいっと押しつけてくる。
「作りすぎたから。仕方ないし、あげる」
「……なんで俺に?」
「余ったものを誰にあげようと、私の勝手でしょ」
そう言って、姫城はそっぽを向いた。
「いらない」と断れば、またどんな嫌がらせをされるか分からない。
仕方なく弁当の蓋を開けてみると――。
「……は?」
中に入っていたのは、昨日妹が作ってくれた弁当とまったく同じおかずだった。
卵焼き。
タコさんウインナー。
アスパラのベーコン巻き。
それだけではない。
おかずの配置まで、ほとんど同じだ。
(こいつ……昨日、少し見ただけで再現したのか?)
ここまで精巧に再現されていると、もはや恐怖すら覚える。
恐る恐る卵焼きを口へ運んだ。
そして、さらに腹立たしいことに――。
めちゃくちゃうまかった。
甘さと塩気のバランスが絶妙で、ふわふわとした食感も完璧だ。
悔しいが、昨日食べた妹の卵焼きよりも――。
いや、駄目だ。
それだけは絶対に認めてはいけない。
「……どう?」
姫城が、どこか落ち着かない様子で尋ねてくる。
腕を組み、平然を装っているが、視線は何度もこちらへ向けられていた。
俺はすぐには答えず、もう一口食べる。
うまい。
悔しいが、本当にうまい。
「まあ……普通じゃないか?」
「そ、そう」
姫城は興味がなさそうにそっぽを向いた。
だが、その口元はわずかに緩んでいた。
長い付き合いだ。
あいつの魂胆くらい、俺には分かる。
俺の最高に可愛い妹よりも上手な弁当を作って、
『私のほうが女子として魅力的だけど?』
と、見せつけてきたに違いない。
なんて負けず嫌いな女だ。
(テストの点数を聞いてきたり、弁当で張り合ってきたり……いちいち俺に関わってくるんじゃねぇよ)
極めつけは、俺が徹夜で数学の課題を終わらせた翌日のことだった。
睡眠不足に耐えきれず、休み時間に机へ突っ伏していると、教室の後ろから騒がしい声が聞こえてきた。
「ほら、菜乃花! 行ってきなよ!」
「ちょ、ちょっと! 押さないでよ!」
「いつまで待たせるつもりなの?」
「早くしないと休み時間、終わっちゃうよ?」
姫城といつも一緒にいる女子たちが、キャーキャーとはしゃぎながら、彼女の背中を押している。
やがて姫城は、俺の机の前まで突き飛ばされてきた。
「……なんだよ」
眠気をこらえながら顔を上げる。
姫城は、なぜか頬を真っ赤に染めていた。
それでも俺を見下ろすようにニヤッと笑うと、おそるおそる片手を差し出してくる。
「ねぇ……数学の課題……」
(こいつ……さては)
俺の課題を写しに来やがったのか?
俺が睡眠時間を削り、徹夜で終わらせたこの課題を?
すぐ後ろにいる女友達には借りず、わざわざ俺から?
というか、お前のほうが頭いいだろ。
この前の数学のテスト、学年最高得点だっただろ。
(あっ、分かったぞ……!)
これはきっと、
『私は課題なんてやらなくても、テストで最高点を取れますけど?』
という天才アピールだ。
そのうえ、成績の低い俺から徹夜の成果を巻き上げようとしている。
資本家が労働者から成果物を搾取する――まさに現代社会の縮図である。
なんて恐ろしい女だ。
「ほら。これ渡すから、さっさとあっち行ってくれ」
机の中から数学の課題ノートを取り出し、姫城の手へ押しつける。
すると姫城は、信じられないものを見るような目でノートを見つめた。
「は? 何よ、これ」
「いや、数学の課題を写したいんだろ?」
「はぁ!?」
姫城の顔が、先ほどまでとは別の意味で真っ赤になった。
「……むかつく。何なのよ、あんた!」
「なんで俺が怒られてるんだよ!?」
「知らない! もういい!」
そう吐き捨てながら、姫城は俺の課題ノートをペラペラとめくり始める。
そして、いつものようにフッと鼻で笑った。
「ふん。汚い字。象形文字かと思ったわ」
「誰が象形文字だ!?」
「うわ、この証明問題、字汚すぎ。むしろ、アンタの字の汚さが証明されたって感じ?」
「文句があるなら返せ!」
俺がノートを取り返そうと手を伸ばす。
すると姫城は、なぜかノートを胸元へ抱え込み、俺から隠すように身体をそむけた。
「これは私が預かっておくから」
「なんでだよ!」
「こんな汚い字で提出したら、先生に迷惑でしょ。私が少しだけ直してあげる」
「余計なお世話だ!」
――ほらな?
姫城菜乃花は、間違いなく俺のことが大嫌いなのだ。
俺が何をしても馬鹿にして。
頼んでもいないのに張り合ってきて。
隙さえあれば、嫌みを言ってくる。
このころには、俺の怒りも限界寸前まで膨れ上がっていた。
だから――。
このときの俺は、まだ想像すらしていなかった。
まさか、その数日後――。
この姫城菜乃花に。
罰ゲームで、“嘘の告白”をすることになるなんて。
※本作では、本文の一部に生成AIを利用しています。物語の構想・登場人物の設定・展開、および表現の最終的な決定・修正は、すべて筆者が行っています。




