第36話
「……お父さん……」
フェレオラは動けずにいた。呼吸も視線も表情もその場に固定され、まるで時間が止まったようだった。
彼はゆっくりと歩み寄り、夢を見るかのように慎重に、娘の手を取った。
「……リアネット。無事で本当に……本当によかった……」
その声は低く、しかし胸の奥から絞り出すような、心からのものだった。
リアネットはまだ体を動かすことはできなかったが、父の手の感触を感じ取ったのか、指がかすかにぴくりと動いた。
その微かな反応だけで、フェレオラは崩れ落ちるように首を垂れた。
声は出なかった。ただ静かに涙をこらえるように。
ビエラは無言でそばに歩み寄り、リアネットの反対側に静かに腰を下ろした。
彼女は何も言わなかった。
だがその瞳には、言葉にできない感情が浮かんでいた。
それは後悔か、安堵か、あるいは「今度こそ救えた」という、彼女自身に向けた小さな救いだったのかもしれない。
彼女は私に視線を向けた。
短く、静かに。そして目を閉じた。
──ありがとう。
唇がそう動いた。
私はうなずくことも、返すこともなかった。だが、それで十分だった。
少女は今、私の上に眠っている。だがそれは“死”ではなく、“生”の眠りだ。
“痛み”ではなく、“回復”の休息。
「……このベッド……」
フェレオラが低くつぶやいた。
ビエラが顔を上げたが、彼はすぐには続けなかった。
しかしやがて、慎重な声音で言葉を継いだ。
「私に売る気はないか?」
ビエラはその言葉に小さく笑った。
「金貨100枚では、足りないでしょうね」
「……そうか」
フェレオラは短く笑った。
その笑みは、わずかながら若返ったように見えた。
私は何も言わなかった。ただ静かにそこに在った。
窓の外には、淡い暁の光が差し込み始めていた。
この屋敷に、本当に久しぶりの“普通の朝”が訪れようとしていた。
今夜は、誰もが眠れるだろう。それだけで十分だった。
すべてが静かだった。
まるで、長く続いた病が癒え、屋敷全体がようやく深い息を吐いたように。
フェレオラの娘──リアネットは、私の上で安らかに眠っていた。
昨晩、あの終わりなき闇の中から引き上げた小さな魂は、今こうして静かに呼吸している。
それだけで、十分だった。
ビエラは窓辺で冷えた茶を手に持ち、静かに外を見つめていた。
フェレオラは娘のそばで、その小さな手をずっと握っていた。
まるで、この瞬間が二度と来ないと知っているかのように。
──もしかすると、誰かがこの平穏を壊しに来ることを、本能的に感じていたのかもしれない。
ドン。
扉が叩かれた。
硬く、ゆっくりと──あまりにも礼儀正しい、不気味なノック。
ドン。
二度目の音。
それだけで、部屋の空気が変わった。
私はただのベッドでしかないが、それでも分かった。
──これは、“悪意”の気配だ。
扉が開かれた。
黒いローブの男が立っていた。
灰色の瞳を持ち、表情も体温も読み取れない顔をしている。
「……カルロス」
フェレオラが、吐息のように名前を絞り出した。
その名を呼ぶことすら、勇気が要るようだった。
男は一歩、また一歩と、あたかも自分の家のようにゆっくりと室内に入ってきた。
「お久しぶりですね、領主様」
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