第2話
どれくらい、そうしていただろう。
ガラスの瓶に映る、見知らぬ少年。
痩せた頬。血の汚れ。怯えきった、目。
それが――僕だ。
ぼんやりと、その姿を見つめながら。
ふと、気づいた。
瓶の中の少年は、奇妙なものを、抱えている。
自分の体より、ずっと長い、金属の柱。
縋りつくみたいに、両腕で、抱え込んだまま。
そうだ。
僕はまだ、これを、離していなかった。
指が、強張ったまま、柄に食い込んでいる。
フォークだ。
ケーキを食べるための、ちっぽけな、二股のフォーク。
ついさっきまで、これで、あのゴキブリと殺し合っていた。
……これ、金属だよな。
そっと刃に触れる。
ひんやりと、硬い。
暗闇の中でも鈍く光る、まぎれもない、金属の冷たさ。
おかしい。
金属でできた、こんなに大きなものを。
自分の背丈より長い、こんな塊を。
どうして僕は軽々と振り回せたんだ?
試しに、ぶん、と振ってみる。
軽い。
ぶんっ、ぶんっ、と、何度か、振り回す。
これは……!
振り回すと、不思議と、心の奥が少しだけ熱くなった。
さっきまで、絶望に押し潰されそうだったのに。
このわけのわからない力が、今だけは、僕を、ほんの少しだけ、強くしてくれる気がした。
「あっ!」
調子に乗って、強く振りすぎた。
ゴキブリの体液で、ぬるぬるになった、手のひら。
そこから、フォークが、すぽっと、抜け落ちた。
ズンッ……。
切っ先が、硬い地面に、深々と、突き刺さる。
その重みで、地面が、わずかに沈み込んだ。
……重い。
手を離れたとたん、フォークは、ただの金属の塊に戻っていた。
決して軽くはない。
自分の背丈より長い、ずっしりと重たい、鉄の棒。
さっきまで、こんなものを、小枝みたいに、振り回していた……?
恐る恐る、もう一度、その柄に、手を伸ばす。
握りしめた、その、瞬間――。
ぞくり、とした。
自分の体の奥にある、何か。
そして、フォークの中に眠る、何か。
その二つが、すうっと、糸を引くように――つながった、気がした。
とたんに。
あれほどの重さが、嘘みたいに、消えていく。
また、軽い。
まるで、自分の手足の延長みたいに、手に馴染む。
(フォークが、軽いんじゃ……ない)
(僕が握ると……僕と、フォークの、何かが……つながって……軽くなる……?)
わけが、わからない。
でも、確かに、感じた。
その時だった。
カサ。
また、あの音。
カサ、カサカサ。
ぞわり、と背筋が凍る。
指の関節が真っ白になるぐらい、フォークを強く握り締め、構える。
「ギチギチギチギチギチッ!」
闇の奥から、また、悪夢を具現化した黒い影が這い出してきた。
巨大ゴキブリがギチギチと牙と関節を不快に鳴らしながら、僕に近づいてくる。
(来るな……来るなよ……!)
震える手で、フォークを振りかぶる。
さっきの、軽さを、信じて。
そして――全力で薙ぎ払う!
ガツンッ!
二股に分かれたフォークの先端がぶつかり、ゴキブリの体をまっぷたつに引き裂く。
「ギチッ!ギチギチギチッ」
ぐちゃ、と両断されたゴキブリの体が地面に落ちる。
僕はケーキを一口ずつフォークで切り分けていくように、巨大ゴキブリの体をカットしていき。
散らばった体をフォークで突き刺して、遠くに放り投げる。
「ギチッ……」
ゴキブリの破片が、闇の中へと消えていく。
死んでいても、ゴキブリの姿が目に映るのは嫌だ。
少しだけ、倒し方、いや駆除方法がわかってきたかもしれない。
カサカサ……
「……え?」
カサカサ。カサカサ。
また、音。
「ギチッ」
ひとつ、じゃ、ない。
闇の中に、ぬらり、ぬらりと、光る背中。
一匹。
二匹。
三匹――いや、もっと!
「ギチギチギチギチギチギチギチギチッ!」
新しく現れたゴキブリたちが。
さっき僕が両断した、仲間の死骸に、群がっていく。
ギチギチ、ギチギチ、と。
まだ、ぴくぴくと痙攣している、細切れになったその体を。
まるでケーキに齧り付く子供のように。
生きたまま、貪り、食らっている。
地獄だ。
共食いの、地獄だ。
「う……うぇ……っ」
込み上げる、吐き気。
こいつらには、仲間も、何も、ない。
ただ動くものを、肉を、貪るだけ。
「ギチッ、ギチギチッ、ギチッ?」
仲間の死体をあっという間に平らげると――ゴキブリたちは、僕を、見た。
ギチ、ギチ、と。
黒い影が、僕を囲むように、距離を詰めてくる。
ゆいん、ゆいん、と長い触覚が揺れる動きがたまらなく気持ち悪い。
逃げ場を探して、後ずさる。
でも、背中が、すぐに冷たい壁に、ぶつかった。
逃げられない――!
前にも、横にも、黒い影。
ぐるりと、僕を、取り囲んでいる。
そして――一匹のゴキブリが猛スピードで突進してきた!
「ギチギチギチギチギチギチギチギチッ!」
「うあああああああああああああ!!!!!!!」
僕はさけびながら、フォークを、めちゃくちゃに振り回した!
「ギチッ、ギギギギッ!ギッ!」
フォークで頭を吹き飛ばされたゴキブリが後ろに吹っ飛ぶ。
でも――傷つき、ギチギチともがき暴れるその一匹に。
他のゴキブリが、すぐさま群がって、喰らいつく。
仲間が傷つくたびに。
滲み出る体液の匂いに、引き寄せられて。
ギチギチ、と新しいゴキブリが闇の中から現れ。
共食いの輪が、どんどん、広がっていく。
地獄だ。
ここは、本当に、地獄だ。
ゴキブリの体液まみれになりながら、フォークをふるい続ける。
一瞬でも動きを止めたら、餌になるのは自分の番だ。
その時。
ぬるり、と、ゴキブリの体液で手が滑った。
フォークは、ゴキブリの体に、深々と刺さったまま。
僕の手から、離れていく。
「あっ……!」
取り返そうと、手を伸ばす。
だが、そのゴキブリは、フォークごと、共食いの渦に、飲まれていった。
武器が――ない。
武器……っ、何か、武器を……!
必死に、あたりを見回す。
すぐ足元に、手頃な大きさの、石ころが転がっていた。
これだ。
さっきのフォークみたいに、これを振り回せば――!
飛びつくように、両手で、掴む。
重い。
……持ち上がらない。
「……え?」
びくとも、しない。
渾身の力を込めても。
その石は、地面に貼りついたみたいに、ぴくりとも、動かない。
なんで……っ!?
フォークは、あんなに軽かったのに。
強くなったんじゃ、なかったのか……!?
わけが、わからない。
心臓が、内側から、ぎりぎりと締め上げられていく。
その隙を――奴らは、見逃さなかった。
「ギチギチギチギチギチギチギチギチッ!」
一番近くにいた一匹が信じられないほどの速さで飛びかかってくる!
「うわあああああああああっ!」
押し倒される。
重い。
硬い。
息が、できない。
腐った油の悪臭が、顔を、覆う。
「ギチギチッ!ギチッ!ギチギチッ」
顔のすぐ前には――おぞましい牙の並んだ口が、すぐ、そこにあった。
ただ、貪り食らうためだけに存在する、捕食者の、顎。
あと数十秒で、僕はこの中に入るのか?
牙が、僕の顔めがけて、迫る!
「いやだああああっ!」
最後の力で、その牙を、両手で、掴んだ。
ヌルリ、とした感触。
硬い牙が、手のひらに、食い込む。
「うぐっ……ぅ、うおおおっ!」
ありったけの力で、押し返す。
食われて、たまるか。
たまるか、終わってたまるかああああああ――!
その、時だった。
ぐにゃり、と。
視界が、歪む。
掴んでいるのは、ゴキブリの牙の、はずなのに。
手のひらの感触が、ふいに、別の何かに、すり替わった。
(――掴め)
(離すな。これだけは、絶対に、離すな)
知らない。
こんな記憶、知らない。
血に、塗れた手。
丸くて、硬い、何かを。
ちぎれそうな指で、必死に、握りしめている。
(このままじゃ……終われない)
(なぜ……なぜ、こんなことに、なったんだ)
(あと少しで!あと少しだった!)
(こんなところで……こんなところで、終わるなんて――)
誰の、声だ。
誰の、無念だ。
僕の、ものじゃない。
僕のものじゃ、ないのに――どうして、こんなに、胸が張り裂けそうなんだ。
「あ……あああ……っ」
ぐわん、と、意識が、現実に、引き戻される。
牙は、もう、喉元、すれすれ。
腕の力は、とっくに、限界で――
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。
こんなところで、死ぬのは――いやだっ!
「うわあああああああっ!!!」
涙と、よだれと、鼻水で、ぐちゃぐちゃの顔で。
ありったけの、絶叫。
それでも、腕は、もう、限界で――
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
凄まじい、衝撃音。
僕を押さえつけていた重みが、一瞬で、消し飛んだ。
「……っ、は……は……っ?」
恐る恐る、顔を上げる。
僕に伸し掛かっていたゴキブリが――胴体の真ん中から、真っ二つになって、壁に叩きつけられていた。
そして、僕の頭上には。
巨大な影が、立っていた。
影の右腕が、振り下ろされる。
鈍く光る、巨大な刃が、一閃。
ザンッ!
僕を囲んでいたゴキブリの一匹を、頭から尾まで、まっぷたつに、両断した。
返す、左腕。
三本の太い鉤爪が、別の一匹を、がっちりと、掴み取る。
そのまま、万力みたいに握り潰し――壁へ、思いきり、叩きつけた。
グシャァアアアアアアアッ!
キチン質の外骨格の砕ける音。
壁に、ゴキブリが弾けた、体液の花が、咲いていく。
逃げ惑う、残りのゴキブリは。
巨大な足が、みしり、みしりと、踏み潰していく。
左右に体重をかけ、抉るように、床へ、すり潰す。
剣で、両断し。
鉤爪で、握り潰し。
足で、踏みにじる。
さっきまで、地獄のように蠢いていたゴキブリたちは――あっという間に、一匹残らず駆除された。
「…………」
僕は、呼吸も忘れて。
ただ、呆然と、その光景を、見つめていた。
そして、ゆっくりと。
僕を助けた、その巨大な影を、見上げる。
そこに立っていたのは――人型の、巨大な、機械だった。
いや、人型と、呼んでいいのか。
僕の背丈の、軽く3倍はある、ずんぐりとした巨体。
太い腕があり、太い脚がある。
でも――頭が、ない。
肩の上には、何も、載っていない。
全身は、赤銅色。
使い込まれた十円玉みたいな、鈍い、金属の照り。
光っているわけじゃない。
わずかな明かりを、その金属の肌が、拾って返しているだけだ。
頭の代わりに、体のほとんどを占めるのは。
丸い、大きな球体の、胴体。
その中心には――たったひとつの、小さな、赤い、単眼。
それが、僕を、じっと、見下ろしている。
首がないのに、確かに、見下ろされている。
腕や、脚をつなぐのは、節くれだった、黒い、蛇腹の関節。
体のあちこちを、艶めく、楕円形の装甲が、覆っていた。
右腕には、鈍く光る、巨大な刃。
左腕は――獲物を鷲掴みにする、三本の、太い鉤爪。
それが、何でできているのか。
どうやって動いているのか。
僕には、まるで、わからなかった。
ただ、わかるのは――この赤銅色の巨大ロボットが。
僕をデザートにしようとした、おぞましいゴキブリの群れを。
文字通り、虫けらを払うように、たった一瞬で、蹴散らしてしまった、という事実だけ。
圧倒的な、暴力。
ゴキブリの恐ろしさなんて、何倍も、何十倍も、上回る――純粋な、力。
機械、なのに。
不思議だった。
ただの機械の、はずなのに。
その赤い単眼からは、はっきりと――明確な、意識を、感じる。
これが……僕を、助けてくれたのか?
この、巨大なものが?
足が、動かない。
安堵よりも、先に立ったのは、畏怖だった。
理解を、はるかに超えた、存在。
その圧倒的な存在感を前に、ただ、言葉を失う。
魂が、震えるような感覚だけが、あった。
ちっぽけな僕は。
その巨大な、赤銅色の巨人を――ただ、強烈に、強烈に、見上げ続けることしか、できなかった。
この話に出てきたケルバーダインは、全部、本当に作った機体です。
実物の写真と作り方は ▶ https://klberdyne.com
気に入った機体があれば、ぜひあなたも作ってみてください。真似されたら光栄です。
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